アイヌたちにとって、松前藩や商人たちとの交易は有益だったのでしょうか?

少し授業でも触れましたが、場所請負制に関しては、平和裡に開かれ、アイヌに歓迎された漁場もあったようです。同時期のエトロフでは、1800(寛政12)に石高換算で2700石、翌年には5220石の魚油を産出し、それなりの利益がアイヌ社会にも流れたようです。同地は幕府の直轄領化によって、1800年前後から、アイヌ人名の和名化も進められました。最近、ロシアのプーチン大統領による「アイヌはロシアの先住民族」発言で話題になった、アイヌ活動家アレクセイ・ナカムラ氏は、自分の父祖は日本に対し武装蜂起してクナシリから追われた、と話しているとのこと。それこそ時代と地域、「場所」によって情況はずいぶん違ったのでしょうが、近代にアイヌたちのために奔走した和人もあり、全面的に苛酷な情況ではなかったと考えたいですね。