2010-07-12から1日間の記事一覧

行基集団のような活動を行っていた民間レベルの仏教者は、渡来系氏族が多かったと聞いています。これは外国から移住してきた人たちですか。

百済系、新羅系の渡来人たちが多く関わっていました。ただし、彼らが日本へ渡来してきたのは5世紀後半〜6世紀初にかけてで、8世紀の行基の頃には列島へ土着して数世代を経た人々だったことになります。彼らの知識や技術は、飛鳥時代以前には大変もてはや…

土塔はどのような経緯で日本に伝来したのでしょう。エジプトは関係あったのですか。

エジプトは関係ありません。インドや東南アジアのストゥーパは土まんじゅう型ですので、それがモデルになったのではないかと考えられています。ただし、そこに瓦を葺くというのは斬新な発想です。ちなみに土塔の建った大野寺は土師氏の氏寺として建てられた…

どうして国家は僧侶からは税金をとらなかったのですか。

僧侶は生産活動に従事しませんので、基本的に国家に支払えるものを持っていません。そのかわり、宗教的実践を通じて鎮護国家に貢献することを求められたのです。

『続紀』養老元年4月壬辰条に、「三綱連署し期日に赴かしめよ」とありますが、これは僧侶が行基や私度僧を取り締まっていたということですか。 / 「四民」を士農工商と訳されていますが、当時は「士」に当たる階級はないのではありませんか。 / 「指を切り取る」「皮を剥ぐ」といった行為は、単なる誹謗中傷なのでしょうか。

養老元年4月壬申詔の基本的なスタンスは、僧尼令という僧侶関係の法律を遵守させることにありました。乞食行に関する三綱への報告も同様で、各寺院の管理・統率者である三綱、仏教界全体の教導者である僧綱は、僧尼令に基づいて僧尼たちを教導する義務があ…

行基集団には、国家の弾圧に対して一揆を起こすくらいの力はあったのではないでしょうか。この頃、僧侶主導の一揆などはなかったのですか。

行基と類似の活動を展開した民間仏教者はありましたが、それらが反乱のような事件を起こすことはありませんでした。仏教では戦闘を忌避するのが基本的な考え方ですので、一向一揆などの方がやや特殊な発現の仕方であると思います。

国家に弾圧されながら民衆救済を行って、行基の側には何かメリットがあったのでしょうか。

そこは宗教的実践ですので、行基の信仰においては充分意味があったということでしょう。彼の思想的根拠についてはさまざまな議論がありますが、他者の救済のために尽くすという姿勢は大乗仏教の究極的理想ですし、そうした善行が自らの覚り、救済に結びつく…

行基が大仏造営に協力したのは国家による偽りかも知れないとのことですが、そのようなことをして国家の側には何かメリットがあったのでしょうか。 / 『続日本紀』という書物の信憑性に疑問を持ちました。史料としてどの程度信用できるのでしょうか。

当時、正史は国家が管理していましたので、後代に正統性をもって受け継がれてゆく史料は、圧倒的に国家の関連のものが多かったわけです。そこに「行基が大仏造営に協力した」と書かれていれば、その真実性は極めて強く受け継がれてゆきます。すなわち、民衆…