2016-07-04から1日間の記事一覧

律令国家が誕生し、中国などの隣国に宣言する際に、なぜ「小帝国」で踏みとどまったのか。また、唐の長安城を模倣して宮都を造営したことは、冊封/被冊封には当たらないのか?

まず誤解のないよう正確にいうと、「小帝国」は、当時の律令国家が使用した言葉ではなく、研究者がそのあり方を規定して述べたものです。当時の日本には、目の前に唐と新羅という大国があり、現実に数十年前には、この二国によって存亡の危機に瀕している。…

当時施行した条里制について、まだ理解できないので、詳しく説明してください。

大地を碁盤目状に均等に区画し、水田を配置してゆく制度です。東西区画が条、南北区画が里で、都市における条坊制(碁盤目状の区画に宅地を配置するもの)と同じ構造を持っています。それまでの列島には、地形に合わせて不定型に配置された水田しか存在しま…

アンチモンですが、伊予より原材料を中央へ納めるより、地方で加工して銭にして納めた方が楽だったのではないかと思うのですが? / 当時はどのようにして金属鉱を見分けていたのでしょうか。

貨幣鋳造においては、実は未だ不明の点が多いのですが、和同開珎の生産に関しては、中央の催鋳銭司と河内などに置かれた鋳銭司の連携のなかで行われたようです。貨幣は権力の象徴でもあり、直接経済に関係してくるものであったため、偽金=私鋳銭は厳しく取…

大宝遣唐使は刀を授けられたそうですが、これは「日本」の軍国的立場からの国際社会への主張と考えてよいのでしょうか。

確かに、将軍にも節刀が授けられます。しかしここは軍国的というより、天皇の権限の分有を粟田真人に許した、すなわち遠国に赴き重要な外交交渉をせねばならない彼に全面的信頼を置き、天皇の代理として外交権を委託したのだと考えた方がいいでしょう。

最初の遣唐使は、中国皇帝からどのような待遇を受けたのでしょうか。

大宝の遣唐使ですね。唐の正史『旧唐書』列伝/東夷/日本国に、「長安三年、其の大臣朝臣真人来りて方物を貢ず。朝臣真人は、猶ほ中国の戸部尚書のごとし。冠を徳冠に進め、其の頂に花を為し、分けて四散せしむ。身に紫袍を服し、帛を以て腰帯と為す。真人…