国史・西洋史・東洋史の3区分で捉えているのは日本と韓国のみとのことですが、中国は国史と西洋史の2区分ということでしょうか。
一般的には、自国史とそれ以外の国々の歴史=世界史、ということになるのでしょう。中国では、広大な地域において種々の事情の相違がありますので、やはりナショナル・スタンダードが完徹されているわけではありません。1999年から現在まで続く教育改革のなか、2001年に示された「課程標準」によれば、歴史教育はやはり中国史/世界史に分かれ、近現代史に重きが置かれています。前者は唯物史観に基づく思考型の要素もあり、中華帝国が世界のなかで衰退してゆき、社会主義を掲げて現在に復興したことが肯定的に語られます。後者は、15世紀までの「古代史」と「近現代史」に分かれますが、前近代の内容は希薄です。中国からの留学生などに聞いてみても、古代や中世の世界史は詳細に勉強できない情況があるようです。
江戸時代には階層、藩ごとに考え方や価値観が異なっていたものを、明治に統合してゆくのは困難が伴ったとのことですが、現在の日本もマジョリティの考え方によって人が動いているので、歴史もマジョリティの思考を教えるしか余裕がないのではないでしょうか。
マジョリティの思考とは何でしょうか。端的に「大多数の」と考えた場合、それは一般庶民の歴史観ということになり、現在主義的な教訓や、多くは現状を正当化するために物語的な歴史が再生産される状態でしょう。実証主義的な〈事実〉は、それほど重要視されません。一応はそうした〈事実〉をもとに構築されたナショナル・ヒストリーも、そうした庶民的マジョリティをひとつの方向に統合しようとしたものですので、そもそもマジョリティの思考ではありません。日本の現状をみた場合、国家の歴史教育も、その内容を知識、記憶として充分根付かせるには至っていません(恐らくは、ただ歴史は事実からなる、それゆえに記憶せねばならない、という事実崇拝のみが刻印されてゆきます)。よって、歴史教育は常に、(マジョリティそのものではなく)マジョリティを創出しようと機能します。歴史学の歴史教育に対する役割としては、そうして構築されつつあるマジョリティを相対化し、そこから零れ落ちてしまうもの、隠蔽されてしまうものをいかに社会に意識させ、救済してゆくかが重要です。
歴史学には主観も大切、ということが印象に残りました。しかし、主観は人によって違うわけですが、ならば「歴史」とはどう完成されるのでしょうか。歴史学者が書いたもののなかで、共通点だけ残したものが「歴史」ですか?
授業でもお話ししましたように、この全世界で1秒間に起きる出来事のすべてを記録することすらできない以上、「完全な歴史」はありえません。歴史叙述は、永遠に完成することはないのです。いいかえれば、偏重や欠落を、集合的主観の創り出す多様性で補完してゆくプロセスこそが、歴史叙述のあり方そのものといえます。「共通点だけ残したもの」は、こうした多様性とは対極の位置にあり、現代歴史学においては重視されません。
ナショナル・ヒストリーは、必要ではないものなのでしょうか。国家にとって、ある程度の統一感は必要に感じます。
皇国史観のところで触れたように、ナショナル・ヒストリーが基本的には怖ろしいものである、国家の目的に国民を動員してゆくために、その自由はもちろん、基本的人権さえ侵害する危険性を持つことを、まずは充分に認識すべきです。国家が正当なものとして公認し、普及を図ってゆく以上、その内容には一定の権威が伴ってもいて、それゆえに強制力が働きます。それでも、実証主義的な事実で構成されているうちはまだよいですが、多くは国家の政治的方針に基づいて都合のよい削除、隠蔽、歪曲などがなされてゆきます。それらはやがて狭小なナショナリズムと結びつき、歴史認識の相違から国家間の断絶を生み、国内外のさまざまなレベルの対立を呼び起こしたりもします。単純に、「統一感を保つために必要」といってはいられません。