徳政論争を、政治的セレモニーとして行う必要があった理由とは何ですか?

蝦夷征討も度重なる造都も桓武王朝においては必要な政策だったのでしょうが、これが列島社会に大きな疲弊をもたらしてしまった。これを単に失策として中止するより、臣下からの諫言を受けて徳を示す方が、天皇の権威を昂揚させると考えられたのでしょう。以前にも書いたかもしれませんが、中国的な皇帝の美質とは、臣下よりの諫言を受け止めることにあります。臣下の意見を聞いて行う政治が理想であり、これを「聴政」といいます。徳政論争は、桓武の徳治を喧伝する一大セレモニーであったともいえます。また、授業でも少しお話ししたように、桓武即位に貢献した藤原百川の嫡子緒嗣が表舞台にあり、彼と菅野真道の議論を監督していたのは、桓武と夫人を共有していた藤原内麻呂でした。そうしてみると、ある意味でミウチ的な儀礼であったともいえます。