多くの天皇が出てきますが、当時、天皇の優秀さというものは問われたのでしょうか。

大きな時代の流れ、もしくは一時代の政治的局面によりますね。飛鳥時代は大王から天皇への移行期ですので、実力重視の段階から王統重視の方向へ舵を切り、例えば蘇我氏が朝廷に大きな権力を得ていた段階では、蘇我氏との血縁関係や、あるいは王権を支える畿内豪族の利害が一致するような人物が、まず優先的に選ばれることになったでしょう。奈良時代においては、天智・天武の血を引く草壁皇子の子孫が選ばれてゆきますので、基本的に選択肢はほとんどなかったはずです。それが変更されるのは皇統の危機ですので、称徳女帝の崩御を受けた白壁王(光仁天皇)の即位は、皇族の長老でありかつ廟堂第3位の高位者(正三位大納言)であったこと、すなわち実績に基づく宮廷社会の合意が重視されたと考えられます。次の山部王/親王桓武天皇)の場合もしかりで、称徳朝においては大学頭、侍従などとして出仕、儒教などの学問や儀礼その他にも明るく、天皇の側近に奉仕していた経験もあった。父親の即位後は中務卿に就任、実質的な政務も執ることができた人物でした。のち、平安期に至って天皇家藤原氏の血縁関係がより強固となり、政治のミウチ化や、摂政・関白常置となって天皇を補佐するシステムが確立してゆくと、皇位も幼帝などで務まる事態となってゆくのです。