2015-07-13から1日間の記事一覧

平安時代になると、密教が流行してくるのはなぜなのでしょうか。

これは少し難しい問題です。実は密教自体は、奈良時代にもすでに活用されています。しかしその時点での密教は「雑密」といい、真言宗や天台宗の「純密」とは違って、瑣末・実践的な呪術や加持祈祷を伝えるのみで、それを根拠付ける壮大な哲学体系を持ってい…

もとは人間であった仏に神々が帰依するというのは、人間が自然よりも優っているとする思想と考えてもいいのでしょうか。

もともと仏教は、あらゆる生命に優劣を設定してはいません(しかし厳密にいうと、仏法を聞いて理解できる人間に、動物以上の価値を認めているのですが)。すべて生命は、その行為の善悪に応じて別の存在へ生まれ変わり死に変わりを繰り返す、ゆえに現在の姿…

格と式についてなのですが、官僚がこれを自由に操作すれば、日本のあり方が恣意的に変えられてしまったのではないでしょうか。

格式の作成自体は、もちろん官僚が恣意的に進めてよいものではなく、上部公卿たちによる決裁が必要でした。よって、官僚集団が格式に基づき権力を任意に行使できたわけではありません。むしろ格式については、社会の現実と向き合って策定されたものが多く、…

新都を建設するにあたって、財源はどこから捻出されたのでしょうか。

当然、国税に基づく国庫から支出されているわけですが、度重なる造都で財源が不足している点は否めません。よって長岡京や平安京の建設では、それ以前の難波宮や平城京を構成した資材のうち、運搬・再利用可能なものは流用したことが分かっています。また、…

奈良後期〜平安初期、新羅や渤海との関係が重要であったと分かりました。当時の日本の対渤海・対新羅政策の基本方針は何であり、貿易はどのように行われたのでしょうか。

国家としては、中華思想の維持ということで一貫しています。新羅はそれを満足してくれなかった、日本のそうした姿勢を拒否したために決裂し、渤海はある程度満足できる対応をしてくれたため厚遇したわけです。しかし貿易については、国家の外交方針とはまた…

「小中華」という考え方ですが、実際の日本では、そうした名に相応しい程度に文化や制度が進んでいたのでしょうか。

当時の政府からすれば、律令・都城・貨幣・国史を持つことが、中華的国家の条件であったと思われます。東アジアの「公式見解」としては、もちろん中華王朝は中国王朝のみに限られるわけですが、当時の東アジア諸国は、大なり小なりそのナショナリズムの発露…

桓武・嵯峨朝に唐風化が進み、天皇の服装も中国皇帝化してゆくのに、それが後世に残らなかったのはなぜでしょうか。色彩感覚などでも、中国と日本とは正反対のようになってしまいますが、どうしてなのでしょう。 / 中国の服は国内で製作する技術があったのでしょうか、それとも輸入でしょうか。

なぜ天皇は、平安時代からプライベートな空間である内裏へ、政務の場を移してゆくのでしょうか。

桓武天皇は血縁的な弱さを抱えていたために、藤原氏の各家と緊密な姻戚関係を結んでゆきますが、それはある意味で貴族社会の一部をミウチ化し、それによって勢力基盤を確立しようとしたということになります。嵯峨天皇も同じ方策を採り、結果として多くの皇…

天皇の継承が安定し、幼帝が出現したとのことですが、幼帝は主に何をするのでしょうか。摂関家の傀儡になってしまうのは想像がつくのですが、ほぼすべてを摂関が握ってしまうのですか。

最終的な決断は天皇が行いますので、その教育係である実母、外戚などが重要な位置を占めることになります。また、前近代においては政治上極めて重要な意味を持っていた儀礼などは、天皇でしか行えないものが種々存在しました。幼帝にも種々の「働きどころ」…

神的性格を持つ天皇が、政務を主体的にとっていたのはなぜであり、また平安に入ると、なぜそれが行われなくなってゆくのでしょう。

もともとマツリゴトには政治的要素と宗教的要素があり、お互いがお互いの力・作用を必要としていたと考えられます。すなわち大王の段階で、政治的首長はある程度の神格化を含有していた。天皇になるとそれが一層進み、天上の神々と結び合わされ、地上の神々…

平安時代の摂関政治は、藤原氏が意図的に始めようとしたのでしょうか、それとも天皇が主体だったのでしょうか。

時代の流れは、なかなか意図的に作り出せるものではありません。あえていうならば、時代ごとの行為の積み重ねの結果だ、とするしかないでしょう。これは、個別の話というよりも歴史の考え方になってしまいますが、かつて、時代・社会構造を動かず人間の行為…

天皇は完全な僧侶にはなれないと仰っていましたが、その後に出てくる法皇とはどんなものだったのでしょうか。

称徳天皇は、太上天皇時代に法華寺にて出家し、恵美押勝の乱直後に法体のまま重祚します。天平宝字8年(764)9月20日、そのときの宣命では、『梵網経』にある「国王が王位に坐すときは菩薩の浄戒を受けよ」との文言を引用し、「出家しても政を行ふに豈障る…

高校の日本史では、道鏡について、「男性として魅力的だった」との説明を受けました。これは、本当のことだったのでしょうか。講義では、あくまで言い伝えだとのことでしたが…。

いわゆる道鏡巨根説は、早く平安初期の『日本霊異記』には登場してきます。当時流行した戯れ歌(童謡)の解釈として、道鏡と称徳との関係などが持ち出されてくるわけです。真相はもちろん分かりませんが、称徳が道鏡の何を重要視したかは、授業で説明したと…

孝謙天皇と藤原仲麻呂の対立の原因がよく分かりません。孝謙も藤原氏の光明皇后の娘であり、仲麻呂がいたとしても、聖武や光明の意志である仏教国家を完成させられると思うのですが。

仲麻呂は大炊王(淳仁天皇。舎人親王の息子)を擬制的な子息として、天皇家との一体化を図ってゆきます。また、光明皇太后のコントロール下で活躍していた頃は問題はなかったものの、彼女の死後は仏教統制を図り、東大寺の造営・運営に関わる財源の削減など…

なぜ藤原仲麻呂は、恵美家を創設したり、天皇家との一体化を目指すなど、藤原氏との切り離しを図ってゆくのでしょうか。藤原氏であることの限界を感じたのでしょうか。 / 乱の後、恵美家はどうなってしまったのでしょうか。

当時、藤原南家には、長男の豊成がいて仲麻呂よりも早くに出世をしていました。北家も、房前以来、南家よりも内廷に強い影響力を持っていたのではないかと思われます。自らの家系を豊成よりも上席とし、藤原氏のなかでも常に頂点へ位置づけておくためには、…

『類聚三代格』の国分寺創建勅の内容に驚きました。仏教に関する詔が出される際には、このような呪詛のようなものが毎回みられるのでしょうか。

必ずしも、そういうわけではありません。このような願文の形式は、「確約的宣誓儀礼」という仏神への誓約儀礼に伴ってみられるもので、飛鳥の段階では、『日本書紀』に幾つか類例がみられます。講義でも扱ったかもしれませんが、乙巳の変直後、飛鳥寺西の広…

期末レポートを書くために読んだ文献で、藤原不比等は中大兄皇子の子供であると書いた記述がありました。これは本当でしょうか。

文献にあらわれるのは、『大鏡』くらいからでしょうかね。確かに、この説に事実性を見出す研究者もありますが、史料的根拠としては薄弱です。恐らく、藤原氏の権力が強大化し、外戚氏族として特別なものとなった段階(やはり、源潔姫という天皇の娘を夫人に…