古代で扱った聖徳太子の史料にしても、中世で扱った元寇の八幡宮関係の史料にしても、客観的事実ではない内容のものが多く残っていると知りました。歴史のなかには、このような祈りや奇跡を含む、主観的な記述が多く残っているものなのでしょうか?

とても重要な質問だと思います。歴史叙述の根幹に関わるような問題ですね。実は、東アジアにおける歴史叙述は、その根幹に、卜占的な未来予測の要素を含んでいます。それはすなわち、中国古代、殷王朝に開始される甲骨卜辞です。もともとは狩猟採集段階において、獲物である鹿などを神霊に捧げて焼尽した際、残った骨の色やひび割れ方などから、神霊が供物を喜んで受け取ったかどうかを知る祭儀だったと考えられています。それがやがて、骨の亀裂を通じて神霊の意志、ひいては未来の情況を知る卜占となってゆき、使われる骨も、牧畜段階の羊や牛を経て、世界観や宇宙観と密接に関わる亀甲になってゆきました。殷王朝の武丁期には、この卜占に際し亀裂に合わせて記録する甲骨卜辞の形式が整備され、下記のような4要素が成立します。
 a)前辞/叙辞……卜占を行った日時(干支)、貞人の名を記す。
 b)命辞/貞辞(命亀)……卜占の命題。一般的には疑問文に翻訳、裂文を回答とする問いかけに設定する
 c)占辞(繇辞)……卜兆をみてそれに宿る神意を判断した言葉で、卜辞の主内容。
 d)験辞……占辞と現実の事象を照合した文。
殷王朝は王の一挙手一投足について占いを立てたため、必然的にa)に王の行動に関する月、b)にその内容(の可否)、d)に実行した内容が記されることになり、時期によっては王の年譜ならぬ日譜を復原することが可能となったのです。これが、東アジアにおける文字を用いた歴史叙述の始まりです。このうち、d)に記録されたものは、卜占の性質上、b)との一致をベクトルとして包含していました。とくに一般の卜者(貞人)ではなく、至高のシャーマンである王が実践した場合には、尚更です。実際のところ、両者には不一致の場合も多かったのですが、それでも「一致すべきであった」という方向性(倫理性というべきかもしれません)は内包することになります。歴史叙述は、客観的な事実の羅列ではなく、実現すべき未来を抱え込んだ文章として出現したのです。

いわゆる天武系の歴代天皇によって形成された律令国家において、「聖徳太子」が歴史上重要な人物と位置づけられ、『日本書紀』であのような記述になったのは、律令国家が天皇親政を基礎とする政権だからでしょうか。仏教の文脈における重要性も、多少は加味されていますか?

もちろん、天皇の存在が日本律令国家には不可欠ですので、そもそも厩戸王という「王族」が聖人のモデルに選択されたのは、天皇を中心とする中央集権体制が構想されたことと関係します。しかし、実在の厩戸王が、蘇我氏と連携しながら仏教興隆に貢献したことを考えると、仏教の要素も非常に大きいということになります。しかしその「仏教」が、現在でいう単なる宗教以上に、当時の東アジア外交においてなくてはならないツールであり、また種々の知識・技術を内包する総合科学であったことも、考慮に入れておく必要があります。また、ひとつ可能性として考えておきたいのは、『書紀』に描かれた聖徳太子の存在が、病弱で実績的に不安を残す首皇太子(のちの聖武天皇)を、正当化する布石だったのではないかということです。のちに国分寺創建や盧舎那仏造立に代表される仏教国家建設に邁進する聖武が、どの段階で仏教信仰を強く持っていたかは分かりませんが、その名前自体が『金光明最勝王経』に由来する光明子に示唆されたものかもしれません。いずれにしろ、皇太子時代からの傾向ではあったでしょう。奉仏の皇太子を、聖徳太子信仰の活発化により正当化する目論見は、時代の阿倍皇太子(のちの孝謙称徳天皇)の際に確認することができます。同時期の光明子に、聖徳太子創建の法隆寺への、盛んな寄進が確認できるのです。いずれにしろ、「聖徳太子」の造詣の背景には、『書紀』編纂時の政治的な情況との密接な関わりが想定できるでしょう。

少数民族の神話を伝承してゆく手段は、非常に限られてくると思うのですが、具体的にどのようなものがあるでしょうか。

まず第一に口頭伝承ですね。今日授業でお話ししたとおり、歴史学研究者には、文字記録よりも口頭伝承を曖昧、もしくは不確かなものだと考えている節がありますが、歴史実践をめぐる人類学研究では、何十代も前に遡る首長の系譜と活動を、淀みなく物語ってゆく語り部の存在が報告されています。近代的な意味での「精確さ」の問題はもちろんありますが、文字記録/口頭伝承の相違は、性質や役割、機能の点に求めたほうが建設的でしょう。例えばクロード・レヴィ=ストロース、ピエール・クラストル、ジェームズ・スコットなどは、文字記録に支配との関連性を見出しており、文字を忌避する民族が存在するのは、支配的権力の出現や、外部のそれに包括されることを拒否しているのだ、と考えます。意識的な運用によって可変性に富む口頭伝承は、支配の触手からするすると脱出するのに適しているが、文字記録はそのまま情報が固定されてしまうために、支配の道具/被支配の契機になりやすいというわけです。中国の正史においては、『後漢書』に少数民族の始祖伝承が多く収められています。これらのうちには、現在も何らかの形で保持されているものが多く、編纂の段階で何らかの調査、聞き取り作業が行われたものと考えられます。ヤオ族の犬祖伝承もこのうちに含まれますが、彼らは『評皇券牒』という独自の文書を生み出し、移動しながらその始祖伝承を改変していったことが判明しています。文字も使いよう、ということになるかもしれません。他にも、イ族やナシ族など、独自の文字を生み出していった少数民族は存在します。しかし、多くはその再現度に幅があり、一回性も高く、われわれの使用する文字より、口頭の世界に支えられている点が大きいことが指摘されています。そのほか、祭祀の折に登場する歌舞など、身体表現が記憶・伝承装置になることもありますね。

異形の者が英雄的存在として語られることは分かるのだが、生まれ方の異常さと、生まれた者の異常さの、2つの系統があるように思う。これらは異なるルーツを持つものなのだろうか。

なるほど、興味深い質問です。異常出生譚、いわゆる生まれ方が異常な例は、例えば聖徳太子厩戸王)や行基など、通常の人間としてのありようが、史実として確認できる存在にも用いられます。太子は馬屋の前で難なく生まれ、生まれながらにして聡明で言葉を話したことが『日本書紀』の段階で、行基は木の股から生まれたとの伝承が、平安時代後期に成立してゆきます。安倍晴明は人間と狐との異類婚姻によって生まれた、というトーテム的な語り口も、異常出生譚のひとつでしょう。しかし、生まれた人間が異常であるという言説は、例えば大江山酒呑童子のように、母親の胎内で3年過ごし髪の生えた状態で生まれてくるなど、姿形が異常であり、存在自体も伝承に近い、あるいはまったくの架空の人物が多いように思います。前者のほうが、顕彰すべき人物を賛嘆する言説としては汎用性があり、広く用いられるようになったのでしょう。先にも触れたトーテム的異類婚姻あたりが原型で、エスニック・グループにおける始祖顕彰の様式が、広く王や皇帝、賢聖や英雄の伝記に援用されていったのでしょう。

蛇=雷神は、生命力の象徴としても現れると分かりました。東洋の龍は川の象徴の側面があると聞いたことがありますが、これもまた生命の象徴とすれば、蛇と龍の相違は何なのでしょうか。

例えば中国ひとつをとっても、龍や蛇に対する言及は無数に存在しますので、どこに視点を置いてみるかによって異なる様相を呈してきます。しかし概していうならば、蛇と龍の相違は上位神霊か下位神霊か、ということになるでしょう。例えば道教では、龍は水と関わりのある神霊ですが、異界にあって現実世界に力を及ぼす霊獣であり、王や皇帝の権威を保証するものとも考えられています。日本古代の北関東からは、人間が下位神霊の蛟(ミヅチ=水の精霊、蛇とほぼ同義)に働きかけ、上位神霊の龍へ報告をしてもらって、雨を降らせてもらおうという祈雨木簡が出土しています。また仏教では、龍とは水界を支配し仏教に帰依する八大龍王で、一般の畜生に過ぎない蛇とは、まさに雲泥の差があります。日本列島においても、仏教や道教が入ってくることで種々の改変が進みますが、やはりアニミズム的な情況を長く保存しており、強力な神格として大神神社のオオモノヌシ神、諏訪大社タケミナカタ神などが、蛇神として信仰されています。なんと中世の伊勢神道では、密教との神仏習合状態のなかで、アマテラスを蛇神と考えた時期もあったのです。

岩石感精の例のひとつとして日光感精を挙げられていましたが、日本で太陽神といえば天照大神で女性であり、精を授けられるのか納得がゆきません。

ぼくの話し方が悪かったかもしれませんが、日光感精の例を挙げたのは、自然物から感精して王を生む、英雄を生むというパターンの1例としてです。そのうえで幾つか付け足しておきたいのですが、まず、古代から現在に至るまでの時間のなかで、天照大神が男性と考えられた時期は存在しました。現在、奈良の長谷寺などに祀られている雨宝童子は、天照大神のことです。また、ぼくが調査対象としている伊豆稲取では、衣冠束帯の男神像を天照大神として祀っているお寺があります。『古事記』や『日本書紀』に書かれているので〈一般的〉なようにみえますが、天照大神=女神も多様な神話の語り方、あるいは多様な神話理解の1パターンに過ぎません。また『日本書紀』などには、天照大神以外にも、男性太陽神と思われる天照御魂神を見出すことができ、これは対馬や京都嵯峨野の木嶋坐天照御魂神社に祀られていて、海洋系の太陽神と推測されています。宮廷神話において、天照大神以前の皇祖神であったと推測されている高皇産霊尊高御産巣日神)は、生成のエネルギーを象徴する神格ですが、天照より上位から天孫降臨を指令する記述もあり、太陽神的性格も有しています。高皇産霊尊とペアともいえる神皇産霊尊が女神とすれば、高天の原に拠る神々の系譜自体が、日光感精から始まると考えることもできるでしょう。

禹は防風神を再生させたにもかかわらず、その子孫が貫胸人となっているのは、罪は許されていない、子孫にも引き継がれるということなのでしょうか?

ああ、その観点はありませんでした。恐らく、そういうことになると思います。どこかで言及しましたが、『易経』には「積善の家には余慶あり、不積善の家には余殃あり」との一文があって、儒教の家の論理を体現するものとしてよく引用されます。仏教の因果応報が基本的には個人の問題、自己責任の問題であることに比べると、祖先崇拝を基礎とする漢民族の論理が際立ちます。『孝経』には、現在の自分の身体は始祖たちからの預かりものであり、それゆえに傷つけることなく子孫へ渡さなければならない、との記述もみられます。儒教における身体とは、歴史の受肉したものであり、始祖たち=過去と子孫たち=未来を繋ぐメディアなのです。それゆえに、われわれは始祖の力を身に宿すと同時に、その罪や害悪も引き受けねばならない。防風神と貫胸人の表象にも、そのことが端的に表れているのでしょう。