逸文の信頼性は、どのように検証するのでしょうか。

まず前提として、掲載されている類書に対する信頼性があります。歴代の『華林遍略』『修文殿御覧』『芸文類聚』『太平広記』『太平御覧』などは、王朝の正史と同様、王朝の威信を賭けた国家的事業として、あるいは勅を奉じ、唐代を代表する(場合によっては数百人に及ぶ)学者たちによって編纂されているからです。そのうえで、他の書物に別系統で引用されてきたもの、一応は伝世され存在する本体があればその記述(後代にあらためて逸文を収集し刊行されたものの場合もある)、あるいは遺跡から出土した竹簡など文字史料、それらを比較対照しながら、微細な部分まで共通点・相違点を確認・検証、どの段階に書かれたものかを想定してゆくわけです。

海外では、復讐譚の名作として『モンテクリスト伯』や『オリエント急行殺人事件』がありますが、日本では復讐より大切なものが出てきて、結局復讐は達成されずに終わるパターンが多い気がします。 / 仏教では復讐は肯定されないのでしょうか。復讐者自身を主人公にした説話などはありますか?

仏教説話については、確かにそういうパターンが多いかもしれませんね。仏教ではそもそも、復讐はまやかしの現実に束縛されている煩悩=執着に過ぎず、それに振り回されている限りは悪業をなす、もしくは悪業を振りまく結果にしかならないので、仏教的には必ず否定されなければならないわけです。しかし、家や宗族の論理、御恩と奉公の人的結びつきが強い中世、儒教的束縛の強固になってゆく近世においては、忠や孝、義などの価値観から、親や主君に対する仇討ち譚が喜ばれました。史実をモデルとしながら、曾我兄弟、荒木又衛門、赤穂浪士、関連して堀部安兵衛など、枚挙に暇がないくらいの復讐譚が存在します。上智大学との関連でいえば、まさに『東海道四谷怪談』などは、本当に徹底した復讐譚であろうと思います。列島の信仰社会が、必ずしも仏教的価値観のみに支配されているわけではなかった証左です。ちなみに、復讐者を主人公にした仏教説話としては、最もよく知られたのは〈王舎城の悲劇〉でしょう。『観無量寿経』などの経典に詳しく描かれた、一大叙事詩です。やはり、前世の悪業に囚われ父王を幽閉して殺害し、結果自らも病に苦しみ、シャカに帰依して救済されてゆくアジャセという王子の物語です。手塚治虫の『ブッダ』などが分かりやすく漫画化していますので、参照してみて下さい。

『源氏物語』において、葵の上を殺してしまう六条御息所の生霊のような存在も、討債鬼と呼ぶのでしょうか。

討債鬼、索債鬼の「債」とは、説話を読めば明らかなように〈負債〉のことです。よって厳密には、前世の負債を決済しなかった借り手に対し、貸し主が〈不具〉の子供になって生まれ、前世で取り立てられなかった分を今生で奪い取ろうとする存在をいいます。前世の恨みを今生で報復しようとする転生復讐譚の、類型のひとつといえるでしょう。よって授業で紹介した事例のうち、精確に「討債鬼」「索債鬼」といいうるのは、『日本霊異記』の事例のみとなります。『集異記』の「阿足師」も、不正確な点はありますが、索債鬼の範疇で理解しても問題ないでしょう。六条御息所の事例は、まず輪廻転生が介在していませんし、ちょっとした諍いと嫉妬が原因で経済的負債ではないので、「討債鬼」「索債鬼」とはいいえないかと思います。

レポートのテーマについてですが、「当該アクターの抵抗する動き」というのは、アクターがモノの場合、第三者のみせる抵抗でもよいのでしょうか?

モノをアクターと考える場合は、そのモノが他のモノ、動植物、人間などとの関係においてみせる動き、そうと認識される動きは、あくまで関係のなかで捉えられることを重視してください。これはモノだけではないのですが、あらゆるアクターのあらゆる動きは、すべて関係のなかで決まります。例えば、日本の近世初期には、城郭建築のために断ち割られた巨大な石から血が噴き出す、という説話が出現します。これは人間の心性が生み出した現象ですが、当の石がなければそもそもかかる説話は生まれませんし、時代的・地域的な人間と石との親和性や、中世後期〜近世初期の大建設時代において多くの石材が使用されたことなど、種々のモノ、事象が複雑に関連しあって出現します。そうするとこれは単純に、人間の心理が生んだ、というだけでは済まない問題がみえてきます。アフォーダンス的にいえば、石が人間に、割れば血を噴き出すという抵抗の認識をアフォードした、という表現も可能でしょう。石が、われわれに考えさせているのです。皆さんの日常的な思考を少し動揺させながら、課題のテーマについて考えてみてください。

レポートのテーマについてですが、「批判的に叙述する」とは、参考文献の筆者の意見を批判すればよい、ということでしょうか。

いわゆるクリティカル・リーディングを意識せよ、ということだと考えて下さい。大学で実践する学問、とくに社会科学系や人文科学系の学問においては、クリティカル・リーディングは基本です。研究文献や史資料に書かれていることを鵜呑みにするのではなく、データと見解をしっかり区別し、その論理構成を批判的に検証しながら読解する。その作業を充分に意識して下さい、ということです。

レポートのテーマになっている〈素材化〉は、「人為的美化」「人為的誇大」と理解できますか。

アクターとして、本来多様な性質を持っているところを、人間が一定の目的のためだけに使用すべく、その他の要素をすべて排除してしまうのが〈素材化〉です。それは物理的な面でも、あるいは精神的、心性に関わる面でも生じえます。その結果が、確かに人間にとって美点と捉えられたり、ある要素が誇張されることもあるでしょうが、それが〈素材化〉とまったくイコールであるとは限りません。

古代で扱った聖徳太子の史料にしても、中世で扱った元寇の八幡宮関係の史料にしても、客観的事実ではない内容のものが多く残っていると知りました。歴史のなかには、このような祈りや奇跡を含む、主観的な記述が多く残っているものなのでしょうか?

とても重要な質問だと思います。歴史叙述の根幹に関わるような問題ですね。実は、東アジアにおける歴史叙述は、その根幹に、卜占的な未来予測の要素を含んでいます。それはすなわち、中国古代、殷王朝に開始される甲骨卜辞です。もともとは狩猟採集段階において、獲物である鹿などを神霊に捧げて焼尽した際、残った骨の色やひび割れ方などから、神霊が供物を喜んで受け取ったかどうかを知る祭儀だったと考えられています。それがやがて、骨の亀裂を通じて神霊の意志、ひいては未来の情況を知る卜占となってゆき、使われる骨も、牧畜段階の羊や牛を経て、世界観や宇宙観と密接に関わる亀甲になってゆきました。殷王朝の武丁期には、この卜占に際し亀裂に合わせて記録する甲骨卜辞の形式が整備され、下記のような4要素が成立します。
 a)前辞/叙辞……卜占を行った日時(干支)、貞人の名を記す。
 b)命辞/貞辞(命亀)……卜占の命題。一般的には疑問文に翻訳、裂文を回答とする問いかけに設定する
 c)占辞(繇辞)……卜兆をみてそれに宿る神意を判断した言葉で、卜辞の主内容。
 d)験辞……占辞と現実の事象を照合した文。
殷王朝は王の一挙手一投足について占いを立てたため、必然的にa)に王の行動に関する月、b)にその内容(の可否)、d)に実行した内容が記されることになり、時期によっては王の年譜ならぬ日譜を復原することが可能となったのです。これが、東アジアにおける文字を用いた歴史叙述の始まりです。このうち、d)に記録されたものは、卜占の性質上、b)との一致をベクトルとして包含していました。とくに一般の卜者(貞人)ではなく、至高のシャーマンである王が実践した場合には、尚更です。実際のところ、両者には不一致の場合も多かったのですが、それでも「一致すべきであった」という方向性(倫理性というべきかもしれません)は内包することになります。歴史叙述は、客観的な事実の羅列ではなく、実現すべき未来を抱え込んだ文章として出現したのです。