2016-06-17から1日間の記事一覧

八百比丘尼の話のなかに、捕まった龍王の娘が、「泣いて赦しを乞うた」という記述がありましたが、何に対して赦しを求めたか分かりませんでした。

確かに、「命乞いをした」という方が、分かりやすかったかもしれません。しかしこのユルスという言葉も、例えば漁師に捉えられた魚介を僧侶などが贖い、海に帰してやるという放生譚のなかで、多く使われる言葉なのです。それらとの齟齬がないように、文章を…

八百比丘尼の話で出てきた人魚は、ディズニーや西洋の話に出て来るような人魚に近いイメージなのでしょうか? / 八百比丘尼の話ですが、自分自身に言い聞かせるような龍王の姿は、どこから考え出したのですか。

宮古島に伝わる人魚伝承に、ヨナタマ=海の精霊と呼ばれる珍しい魚が捕らえられ、焼かれて喰われようとしているのを、大津波が襲って村ごと破滅させてしまうというものがあります。日本にも、上半身は人間、下半身は魚という人魚形象が存在しますが、ここで…

「八百比丘尼の告白」で、龍王が瞋恚のままに村を滅ぼしたといっているのは問題な気がします。神の立場にあるものが、契約違反で罰するならまだしも、怒りの感情に任せて…というのはどうなのでしょう。また、供養をし続ける娘の死で龍王の罪が浄化されるというのも、他力本願であるように思います。 / 八百比丘尼にあった龍王と仏教との関わりについて、日本では古来から神々や神道と仏教との関係が密接であったということでしょうか。

以前に神身離脱の話をしたとき、聞いてくれていたでしょうか。アジアにおける神はキリスト教的な神とは異なり、より人間的な存在です。龍王などは『妙法蓮華経』にも描かれ、東アジアでは半ば仏教的な存在になっていて、人間より優れた力を持っているものの…

宮澤賢治が構想した理想郷イーハトーヴは、授業で扱ったような生死の正しさをめぐる葛藤から生み出された、と考えてもいいのでしょうか。

イーハトーヴは、確かに理想郷ではあっても、生死をめぐる苦しみや悲しみが消滅している世界ではありません。むしろ、その葛藤が際立っている、あるいは、みなその問題に自覚的である、という言い方は可能かもしれない。現実の世の中を直接舞台とすると生々…

アニミズムの思想にある生命の供養の仕方について、日本の精肉を行っている方々もしているのでしょうか。

屠殺場では、「獣類供養」などの仏教的法会が行われ、供養塔の立っているケースが多いですね。なお、これは屠殺場に限らず、動物実験の行われる病院、研究所などでもみることができます。

人が捕食する場合の、人と宗教との関わりとは別に、人が捕食される場合の、宗教との関わりはあるのでしょうか。

上の話にもその要素は残っていますが、アフリカのブッシュマンの狩猟に関する言説を調査している菅原和孝さんによれば、彼らの狩猟は現代的なハンティング以上に生命の危険を伴う。ヒョウやライオンに殺される危険も、常にあるわけです。そうした緊張感のな…

日本だと、あまりベジアーゼ神話のような「肉を送る」話は聞かないような気がしますが、仏教と関係があるのでしょうか?

確かに仏教の影響もあるでしょうが、やはり狩猟という生業が、社会の表面から隠されてきたからでしょうね。しかし古代からのさまざまな物語が、動物の主神話の痕跡を伝えていることも確かです。今後の授業でも扱ってゆきますが、例えば以前に紹介した『出雲…

人は自分の手を汚すことから逃げて逃げてしまいますが、いつかは現実を体感しなくてはいけないので、人間がこの逃げ続けていたことと相対したとき、どうなるのでしょうか。同じ生活を続けて生き続けるのでしょうか。

どうでしょうか、難しい質問です。しかしただひとつ確実なのは、手を汚すことからいかに逃げようと、確実に自分の手は汚れてしまっている、ということです。そのことから目を背け続ければ、大切なものも見失う。いかに自覚し、責任を取るか。もちろん、ぼく…