称徳天皇は道鏡を皇位に即かせようとしたとのことですが、本来僧は世俗から切り離された存在であり、彼らが王位に即くのは道理に反しているのではないかと思います。
そうですね。このことを理解するためには、奈良時代、僧尼が置かれていた環境について知っておく必要があります。現在の感覚でいうなら、個人がいかなる信仰を持とうが、仏教に帰依し出家をしようが、国家がそれに介入をするのは不当でしょう。しかし、まさにその「出家」という行為が、個別人身支配を前提とする律令国家においては大問題だったのです。律令国家は種々の租税徴収を安定化させるため、戸籍作成を通じ、列島社会に家父長的な家族形態を定着させようとしました。しかし、仏教が浸透して人びとが家族を離れ、山中や寺院での修行生活に入ると、まず彼らに租税を賦課することができなくなります。また、多くの人びとがそうした形で「出家」を断行すれば、せっかく安定させようとした家族が崩壊してしまいます。事実、養老年間に平城京で活動した行基集団は、多くの老若男女をそのグループへ取り込んでいったために、儒教的な家族形態の動揺を怖れた朝廷によって弾圧され、平城京外へと追放されてしまうのです。そうした理由によって、律令国家は、唐にはなかった「僧尼令」という法律を定め、一般人の出家を管理し、また僧尼の行動・生活自体も厳しく規制して、鎮護国家のために奉仕させようとしました。このような環境のなかで、国家の承認を得て出家し、僧尼令を遵守して活動している僧侶を「官僧」と呼びます。逆に国家の承認を得ずに出家し、その規制を逃れつつ私的に活動している僧侶を、「私度僧」と呼ぶわけです。彼らは僧侶としては認められず、租税を忌避し国務を対捍する存在として取り締まられました。いわば官僧は、宗教者である以前に、国家に奉仕する一種の官僚であり、世俗を完全に離れた存在ではなかったのです。