墾田永年私財法は国家にとってプラスであったかマイナスであったか、教科書等の記述でコロコロ変わっています。先生はどうお考えですか?
政策を歴史的に評価する場合、現時点で当面する課題に効果的であったかということと、将来にわたってどのような影響を及ぼしていったのか、ということがポイントになるでしょう。前者においては、三世一身法から墾田永年私財法にかけての政策的流れは、それなりに効果的であったと思います。条里制の話を少ししましたが、租を徴収するための耕地の拡大が急務であった奈良時代、国家の主導だけでそれを達成するのは、現実的にはかなり難しかったはずです。温暖期にあって高まる一般社会の開発熱を、阻害することなく、逆にどう支援して生産力を高めてゆくか。その点において、どんなに懸命に耕作してもいずれ収公されてしまう口分田から、自ら開墾すれば永久に私有が叶うという墾田の位置づけは、大きなものがあったと思います。私有地とはいえ輸租田なわけで、耕作者には納税の義務があったわけですから、国家にはそれほど大きな損失はありません。また、土地への愛着が湧けば庶民の定住性も増し、浮浪逃亡などを抑止する効果も期待できたはずです。さらに藤原四子の政権は、もともと平城京にあって違法な托鉢行為をしていた行基集団が、畿内周辺で種々の社会事業を行っていたことを公認しました。行基らは畿内の渡来系氏族らと結びつき、交通路の整備、その沿線にあって行路者を救済するための布施屋の設置・運営のほか、水路や溜め池などの灌漑施設の造営も行い、地域の開発欲求を支援していたのです。私財法はそれらと密接に結びつき、耕地拡大の役割を果たしていったものと考えられます。しかし後者においては、これが荘園拡大の端緒をなし、やがて地域財政、国家財政を逼迫させるに至ったと、マイナスの評価をされることが多い。その結果、個別人身支配を中核とする律令の租税体系は立ち行かなくなり、寛平・延喜の国政改革を経て、諸税を一括して土地に賦課する王朝国家体制への移行が図られてゆくのです。ただし、そうした事態は田地に不輸租の特権を認めるかどうかで生じた問題であり、私財法が直接的な原因ではないのではないかと考えます。