埋甕の絵は、母の胎内に戻るより、むしろ流産のようにみえます。無事に埋めなかったことを戒めているのではないか、という学説はありますか?

「子供を産めなかったことを、女性に戒める」という発想は、極めて家父長制的なものの考え方です。男性優位であり、女性を、それこそ生む機械としかみていません。縄文時代には、当然家父長制的家族など存在しませんし、例えば、男性=強力・厳格・権威的、女性=柔軟・優しさ・慈愛といった、父性/母性カテゴリーは、すべて未成立であったと考えられています。男女を表象する造型に、生殖器をはじめとする身体的部位以外、男女差を区別する形象が一切見出せないためです。出産は決して男性にはできない、生命を産出する偉大な行為であり、畏怖をもって認識されても、決して男性による支配を受けるようなものではなかったのです。

中等教育における歴史の授業は、歴史学といえるのでしょうか。

歴史学を、近代に成立したひとつの学問的制度と理解するなら、中等教育での歴史科目は歴史学ではありません。歴史学の成果のうち、通説的な部分を教養として学び、理解・記憶しているに過ぎません。ただし、記憶や理解の過程においてもろもろの思考がなされ、ときには史料を読み込んだり、他国の事例と比較するといった作業も行われるでしょう。それらは、一般レベルで過去について思考し、もろもろの物語りとして受容してゆく、〈歴史実践〉と位置づけることができるでしょう。しかしその場合も、例えば先行学説の批判、史料批判や読解、それらに基づく歴史像の構想、新たな成果の論理的叙述と学界への発表といった、一連のアカデミズムの手続きを経るわけではない(そして、それらの方法と技術を専門的に学んでいるわけではない)ので、歴史学とはいえないのです。

日本の戦争責任に関する賠償問題については、過去の人の責任を未来の人が取らねばならないのは、何となく理不尽ではないかと思ってしまう。

気持ちとしては分かります。しかし、授業でもお話ししたように、われわれの現在の生活が、帝国日本の対外侵略と植民地経営、それに伴って利益を得てきたもろもろの企業の活動に基づくとすれば、われわれにも責任は厳然とあるのです。オーストラリアの日本研究者であるテッサ・モーリス=スズキは、この問題を「連累(implication)」という概念で、次のように説明しています。

わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。わたしは虐殺を実際に行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。

 わたしたちが今、それを撤去する努力を怠れば、過去の侵略的暴力的行為によって生起した差別と排除(prejudices)は、現世代の心の中に生き続ける。現在生きているわたしたちは、過去の憎悪や暴力を作らなかったかもしれないが、過去の憎悪や暴力は、何らかの程度、わたしたちが生きているこの物質的世界と思想を作ったのであり、それがもたらしたものを「解体(unmake)」するためにわたしたちが積極的な一歩を踏み出さない限り、過去の憎悪や暴力はなおこの世界を作りつづけていくだろう。

 すなわち、「責任」は、わたしたちが作った。しかし、「連累」は、わたしたちを作った。 

これは、例えば、世界各地で悪しきグローバリズムの弊害を引き起こしている多国籍バイオ企業モンサントについて、直接その商品開発や経営に手を貸していなくとも、これを支援する企業の商品を購入し生活を営んでいれば、モンサントの活動に加担しているのと同じことになる……という考え方の通時版といえるでしょうか。また、このこととは別に、「どうも自分自身の責任と引き受けて考えられない。自分の税金をそのために使用されるのは嫌だ」というのであれば、国家を訴えて国家に責任を取らせればよいのです。それができない人は、恐らく知らず知らずのうちに、国民国家の〈国民化(nationalization)〉にどっぷり浸かってしまっており、主権者であることを放棄しているのではないでしょうか。

確かに、アイヌや琉球の文化を無理に日本の文化と同一視する必要はないと思います。しかし、北海道も沖縄も現在は「日本」であり、彼らの権利をその他の県の人びとと分けて考える必要があるのでしょうか。

気持ちは分かりますが、そのあたりの判断は、アイヌの人びと、沖縄の人びとが、彼ら自身で行うべきことですね。究極的には、国民国家日本への帰属/独立の決断も含めてです。なぜならいうまでもなく、近世から近代へかけての日本が、彼らを暴力的に帰属させ、どの文化の独自性を奪って同一化政策を進めてきたからです。国連が日本へ勧告を繰り返しているのは、国連総会第61会期(2007年9月13日)で採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に、日本は賛成票を投じたにもかかわらず、琉球を「併合」以前に独立した主権国家であったと認めていないためです。これは、琉球を先住民として公式に認めてしまえば、この国連宣言に従って種々の便宜を図る責任が生じ、例えば、アメリカ軍の基地を一方的に押しつけるなどの政策が採れなくなるためです。アイヌについても、なんと2008年の国会決議まで、先住民という認定をしていませんでした。そのうえ現在でも、「アイヌ民族はもはや存在しない。不正な補助金受給者の泥棒だ」という、ヘイトに近いキャンペーンまで行われる始末です。沖縄については、「同じ日本なのだから日本全体のことを考え、基地を受容すべき」との議論、アイヌについては、「日本によって侵略された先住民というけれど、明治以前の北海道は日本ではなかったのか」という議論が、さまざまなところから噴出しています。たとえ好意からであっても、「同じ日本」という括り方には、充分に慎重でなければなりません。

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日本会議北海道支部による、北海道博物館への公開質問状

 

「山越阿弥陀図」のような図像は、現在では「ありがたい」よりも「何だか怖い。不気味だ」と思われることのほうが多い気がします。いつからそのようなイメージに変わったのでしょうか。

ひとつには、主観の問題ですね。多くの仏教徒、とくに日本の浄土宗や浄土真宗の門信徒であれば、「不気味だ」といわれることに憤慨し、「ありがたい」存在と考えるでしょう。しかしもうひとつ、大きな情況としては、近代以降に宗教の価値が排斥されてきたことに原因があります。近代科学主義のもとで、宗教は迷信的なレッテルを貼られ、宗教的行為はすべからく呪術的な行為であるかのように喧伝されてきました。戦後の日本社会においては、国家神道へのアレルギーのために宗教自体が忌避され、いかがわしいもののような印象操作がなされてきたわけです。とくに仏教については、葬儀、すなわち死と結びついたイメージが強調されることになりました。実際、核家族化し地域共同体から遊離した人びとが仏教と接するのは、田舎の法事か、盆や彼岸の墓参り、もしくは肉親・知人の通夜・葬儀に際してということになってしまう。仏壇を持つ家庭でも、本尊は死者と共にそのなかに安置されるイメージであり、死の印象を免れることはできない。不吉です。仏像が「不気味」になってしまったのは、以上のような理由からでしょう。

死者が神になりこの世を見守る目的として、古墳を造ったと聞いたことがあります。どうなのでしょうか?

それはかなり通俗的な説明ですねえ。確かに、古墳に埋葬されているのはカミなのか、それともヒトなのかという議論は、未だに古墳時代関連の重要な論点のひとつです。前者の場合、古墳を祀る現首長=被葬者の後継は、古墳祭祀をカミを生み出すもの、あるいはカミを祀るものとして挙行していることになります。それは、現首長とその統治を守護する役割を期待されているのでしょう。一方後者の場合は、現首長は被葬者から王としての神的能力を受け継ぎ、いわゆる首長霊継承祭祀のようなものとして、古墳祭祀を行っていることになります。いずれにしても、古墳は地域権力者との関係が密接であり、現代のわれわれが考えるような、世界全体を救済してくれるような存在ではなかったと考えられます。ヤマト王権自体、高天の原の神々の権威を背景に全国統治を進め、他の地域の神々を殺害したり、他の氏族の始祖神を抑圧し、暴力的に服属させたりするわけですから。

現代人が死から遠離っているのは、なぜだと思いますか。

いろいろな説明の仕方が可能ですが、ひとつには、無痛文明のためです。この概念は、倫理学者の森岡正博さんのものですが、現代文明のある特徴を捉えたタームです。すなわち現代文明は、人間が可能な限り不快な思い、痛みや苦しみを感じないように作用する。毎日の生活でいえば、夜間の照明から始まって、エアコンなどの稼働が典型的な事例ですね。家畜の殺戮が一般の目から隠され、スーパーには「加工品」としての肉のみが並ぶのも同じです。しかし人間は、喜びや楽しみ以上に、苦しみや悲しみを通じて共同性を発揮する存在です。それゆえにこの無痛文明には、人間の共同性を阻害する、すなわち人間と人間の繋がりを分断する弊害があります。例えば、エアコンの稼働する室内で毎日快適な生活を送っていたら、極寒の地で生活する人びとの労苦、極暑の地で労働する人びとの辛苦を想像することは難しくなってゆくでしょう。私が以前、僧侶としてお通夜や葬儀、法事等々を日常的に行っていたとき、ある老婦人の葬儀に、お孫さんたちが出席しないということがありました。お母様いわく、「子供たちには、残酷でみせられない」とのこと。私は、親の最後の教育というものは、自分の死んでゆく姿を子や孫にみせることで、死の苛酷さ、哀しさ、喪失感、そして尊厳を伝えることだと考えています。肉親の死、知人の死、可愛がっていた動物の死を衝撃をもって受け止めることで、人間は他の生命への共感と、自分の生命への洞察を深く強くしてゆきます。「現代人が死から遠離っている」のは、文明や社会が死を隠蔽しているからでしょうが、その結果として、われわれが生からも遠離っているのが怖ろしい。生/死は表裏一体なのですから。