日本の戦争責任に関する賠償問題については、過去の人の責任を未来の人が取らねばならないのは、何となく理不尽ではないかと思ってしまう。
気持ちとしては分かります。しかし、授業でもお話ししたように、われわれの現在の生活が、帝国日本の対外侵略と植民地経営、それに伴って利益を得てきたもろもろの企業の活動に基づくとすれば、われわれにも責任は厳然とあるのです。オーストラリアの日本研究者であるテッサ・モーリス=スズキは、この問題を「連累(implication)」という概念で、次のように説明しています。
わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。わたしは虐殺を実際に行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。
わたしたちが今、それを撤去する努力を怠れば、過去の侵略的暴力的行為によって生起した差別と排除(prejudices)は、現世代の心の中に生き続ける。現在生きているわたしたちは、過去の憎悪や暴力を作らなかったかもしれないが、過去の憎悪や暴力は、何らかの程度、わたしたちが生きているこの物質的世界と思想を作ったのであり、それがもたらしたものを「解体(unmake)」するためにわたしたちが積極的な一歩を踏み出さない限り、過去の憎悪や暴力はなおこの世界を作りつづけていくだろう。
すなわち、「責任」は、わたしたちが作った。しかし、「連累」は、わたしたちを作った。
これは、例えば、世界各地で悪しきグローバリズムの弊害を引き起こしている多国籍バイオ企業モンサントについて、直接その商品開発や経営に手を貸していなくとも、これを支援する企業の商品を購入し生活を営んでいれば、モンサントの活動に加担しているのと同じことになる……という考え方の通時版といえるでしょうか。また、このこととは別に、「どうも自分自身の責任と引き受けて考えられない。自分の税金をそのために使用されるのは嫌だ」というのであれば、国家を訴えて国家に責任を取らせればよいのです。それができない人は、恐らく知らず知らずのうちに、国民国家の〈国民化(nationalization)〉にどっぷり浸かってしまっており、主権者であることを放棄しているのではないでしょうか。