先日肉料理のイベントに行った際、肉食反対を訴える人々がプラカードを掲げて、動物の殺害現場を撮った写真をみせていました。主張は分かるのですが、これから肉を食べようとしている人たちに、その訴え方は倫理的にどうなのでしょうか。

もちろん、倫理的に是です。倫理というものは、永久不変な真理ではありません。時代によって、社会によって違いがあり、またどんどん更新されてゆく性質のものです。倫理の範疇は他者理解の拡大とともに、家族、隣人、地域、国内、国外、そして人間以外へと展開されてきました。ベジタリアンはヒト至上主義を否定する環境倫理を標榜していますので、面白がって、楽しがって肉を食べるイベントなど、倫理的にありえないものと認識しています。この情況は、例えば、ナチスを賞賛する映画をみるイベントに集まった人々に対して、ユダヤ人たちがホロコーストの写真をみせているとのと、構造としては同じです。自分たちが食べている肉がどのような状態で「生産」されているのか関知せず、ただ美味しい美味しいと食べているのは、授業で指摘したように「無知の暴力」です。そうしたなかから、食卓でスキヤキを囲みつつテレビで野生動物のドキュメンタリーをみて、「ライオンがインパラを食べている。残酷だね」と眉をひそめる歪さや、屠畜の最前線で働く人々を差別するような情況が生まれてきます。食肉の「生産」過程をきちんと知ったうえで、自分なりの考えがあって食べるのであれば、臆せずベジタリアンに主張すればよいでしょう。気分が悪くなるくらいならば、最初から食べなくともよいと思います。……などと偉そうにいいましたが、ぼくもすべてを思い通りに実践できているわけではありません。基本的な立場は、「肉を食べるならば自分で殺し、その重みを背負う覚悟が必要」と考えています。ゆえに、いまでも狩猟を生業とする民族社会の人々や、食肉生産に従事する人々には一定の敬意を持っています。しかし、魚に関しては妥協し、自分で捕ってもいないのに食べているので、説得力はありませんね。ただし、いつもいうのですが、例えば「肉を食べない」ことを1週間続けてみよう、と決意するだけで、いままで気づかなかった社会の食品生産の仕組みがいろいろみえてきます。ポテトチップスにも牛肉パウダーが入っている、豆腐ハンバーグにもつなぎで鶏肉が使用されている…などなど、きちんと成分表を確認しないと、「肉を食べない」ことは案外難しい。この世界は、「肉」に覆い尽くされていることがみえてきます。

帝国日本の植民地経営、戦争に関する賠償金を、例えば東南アジア諸国に対しては、経済協力の形で負担するよう承認してもらっていたことを初めて知りました。しかし、戦後荒廃していた日本に、アジア諸国は何を「期待」したのでしょうか。

確かにそのあたりのことは判断が難しいですが、戦前・戦中の日本の技術力についてはそれなりの評価があり、またサンフランシスコ講和条約についてはアメリカの実質的な勢力下で連合諸国の承認がなされましたので、アメリカの意向も忖度されつつ決断がなされたのでしょう。具体的には、例えば1959年に締結されたヴェトナムとの賠償協定では、まず冒頭第一条に、「1)日本国は、現在において百四十億四千万円(一四、〇四〇、〇〇〇、〇〇〇円)に換算される三千九百万アメリカ合衆国ドル(三九、〇〇〇、〇〇〇ドル)に等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から五年の期間内に、以下に定める方法により、賠償としてヴィエトナム共和国に供与するものとする」「2)前項に定める生産物及び役務の供与は、最初の三年の期間において現在において三十六億円(三、六〇、〇〇〇、〇〇〇円)に換算される一千万アメリカ合衆国ドル(一〇、〇〇〇、〇〇〇ドル)に等しい円の年平均額により、次の二年の期間において、現在において十六億二千万円(一、六二〇、〇〇〇、〇〇〇円)に換算される四百五十万アメリカ合衆国ドル(四、五〇〇、〇〇〇ドル)に等しい円の年平均額により行うものとする」と定めています。金額は設定されていますが、「生産物および役務」で支払うとしている点が重要です。また第七条には、「2)ヴィエトナム共和国は、日本国が第一条に定める生産物及び役務を供与することができるようにするため、利用することができる現地の労務、資材及び設備を提供するものとする」「3)この協定に基く生産物又は役務の供与に関連してヴィエトナムにおいて必要とされる日本国民は、ヴィエトナムにおける所要の滞在期間中、その作業の遂行のため必要な便宜を与えられるのとする」「4)日本国の国民及び法人は、この協定に基く生産物又は役務の供与から生ずる所得に関し、ヴィエトナムにおる課税を免除される」とも規定されており、生産物と役務を供与する日本国民の待遇が保証されています。賠償協定が実質的にはいかなるものであったか、明確に知られると思います。

以前みたテレビで、「日本はもう格差社会から階級社会だ」と主張していました。これは完全に排斥思考の表れだと感じたのですが、この点をマイノリティの実態から考えてどう思いますか?

格差社会と階級社会の相違点は、どの程度その社会的・経済的位置が再生産され、次世代へ継承されてゆくかということでしょう。列島社会はもともと首長に依存した並列な共同体で階級的意識が弱く、なだらかで一定の入れ替わりのある〈階層〉社会とみられてきました。しかし近年は、格差の拡大と固定化が進み、変動を是としない排斥性、すなわち格差の是正を省みない保守性が顕著にみえます。一般に近代的な富裕層は、その資産から生じる精神的余裕を基盤に、文化の保全・発展や慈善事業を自らへの責任として課し、建前的にではあれ格差の是正、再分配を図ってきました。しかし新自由主義下の富裕層は、激しい競争を背景にいつ退転するかもしれない地位の不安定さに怯え、それを補強するために、むしろ格差の拡大と固定化を狙っています。列島社会のように、社会の利害関係が首長に代弁されるような共同体では、個々の市民の問題意識や主体性も涵養されません。他者を他者として了解するような心的態度は成り立たず、マイノリティは(その〈希少性〉によって)自らの地位を動揺させるものと認識されるか、関心の外に置かれるかのどちらかにならざるをえないと思います。

私の姉は空港で働いているのですが、そこで問題になっているのが、カワウソのような動物の違法輸送です。スーツケースのようなもので運び込まれた動物たちは、ほぼ死んでしまっているようです。「動物の権利」は、やはり国によって認識の相違があるのでしょうか。

心が痛いですね。動物や植物の権利については、近年ではピーター・シンガーが、理論的にも実践的にも大きな流れを作っています。「どのように考えるか」が重要な曖昧な部分については、もちろん各国、各地域、各階層、そして個々人によって大きな相違があるでしょう。制度的には、質問に直接関わる国際貿易については、1973年に承認され1975年に発効した、通称「ワシントン条約」があります。批准した182ヵ国=すなわち輸出国/輸入国の協力によって、絶滅危惧種の国際的取引を禁止・規制することにより、各国の自主性に任せつつ、乱獲を抑止しようとしたものです。「自主性」の部分については、あくまでこの条約がいわゆる先進国の意向で決められたため、当時の発展途上国内部の事情、例えば食習慣や希少情況などにも配慮したものでした。ただし、そうした理由もあって「何を希少種とするか」にはブレがあり、問題のひとつになっています。近年では、生物多様性を保証する生息地内外の保全を義務づけ、持続可能を実現する「生物多様性条約」が、1993年に発効しています。日本でもこれに基づいて国家戦略が定められ、「河川法」や「農業基本法」などのうちに盛り込まれています。しかし、日本の場合はどうも持続可能性の経済的側面、簡単にいってしまえば「生かさぬように殺さぬように」搾取する方面へ意識が強く、また生態系保全についても外来生物への過度な排除傾向がみられます。後者はすでに井上太一さんらも指摘していますが、日本社会の排外性の強さとも関わりがあるように思います。

生態系の利用から生命の改変を行うようになったというのは理解できたのですが、国家はともかく宗教の核になったというのがよく理解できませんでした。

詳しくは谷泰さんの『神・人・家畜』や『牧夫の誕生』を参照していただきたいのですが、まず誤解があって、「生命の改変を行うようになった」ことが国家や宗教の核にんるのではなく、「生態系の利用」の時点、すなわちドメスティケーションの発想と知識・技術、組織のあり方そのものが、国家や宗教の展開に繋がっているということです。すなわち、家畜の群れの動きをコントロールする(そのためには家畜の性質、個々の正確をよく理解し、必要な誘導を行わねばならない)、数量をコントロールする(牡の去勢、必要なときに出産させる、そして屠殺する)ことなどを、ある程度そのままに人間に適用し、王や神のもとに奉仕する集団を作り上げていったのが、西アジアに始まる古代国家、ユダヤ教キリスト教の起源だというわけです。それゆえに、後者にはいまだに羊/牧夫のアナロジーが、人間と神、預言者との関係のなかでそのまま使用されている。もちろん、宗教のなかには牧畜に由来しないものもありますが、ユダヤ教系統のものにはその性質が顕著に認められる、という考え方です。

あいちトリエンナーレの昭和天皇の写真を燃やした作品ですが、人間の写真を燃やしているのを展示するのは、許されないことだと思います。それが天皇であっても、ただの国民であってもです。

これは、ぼくの説明の仕方が悪かったかな、と思います。まずあの作品、嶋田美子「焼かれるべき絵」「焼かれるべき絵:焼いたもの」のあり方ですが、きちんとその内容や意図が報道されていないのではないでしょうか。リンク先を参照してください。この作品の前提には、まず、1986年「富山の美術」展に出品された大浦信行「遠近を抱えて」という作品が、昭和天皇の写真をコラージュしたアートであったために、県議会での言及、右翼団体の抗議などを通じて非公開となり、図録470冊が焼却処分となるという「事件」があったわけです。それに対して嶋田美子が、「天皇の写真のコラージュはダメだが、天皇の写真を焼くのは構わないのか」という問題提起として、天皇の写真を焼却するアートを作成した。今回の「表現の不自由展」は、その2つを併せて展示することで、アートと政治・社会との関係を問おうとしたものです。ぼくの授業での説明は、抵抗の手段が封じられた被抑圧者には、権力者の肖像を焼くくらいの〈蛮行〉は許容されてもいいのではないか、という趣旨でした。もちろん、ぼくも僧侶ですので、いかに写真といえど、生命を軽視するような行いは認めたくありません。しかし、種々の権利が保障された温室のなかにいるわれわれには想像できないような苦しみ、悲しみを抱えた人々の行為としてそれが現れたときに、ぼくらにはそれを否定する権利があるだろうか、と考えてしまうのです。もちろん、今回のアートはそうした意図、そうしたポジションからの発信ではなかったわけですが、そもそも常識的価値や秩序を相対化する役割を持つアートの表現手段として考えた場合には、個別に許容する余地があるのではないでしょうか。

冒頭で、「日本は国としてアイヌが先住民であることを最近まで認めていなかった」という話がありましたが、その理由が気になりました。先住民という言葉に野蛮な印象があるからでしょうか。 / 沖縄の人々を先住民として認めるよう求める国連勧告に対し、幾つかの地方議会が反対する決議を行いましたが、これはどういう問題なのでしょうか。

あれ、授業で説明しなかったでしょうか? 国連で2007年9月13日に採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」には、あらゆる差別、強制的な同化、文化の破壊を否定し、先住民を内包する国家は、そうした抑圧の防止と彼等の救済のために、種々の効果的な措置を講じねばならないとされています。この宣言の起草に向けて最初の動きがあったのは、1982年以前のことで、先住民差別に関する調査報告書の作成・提出を受け、経済社会理事会において国際連合先住民作業部会が起ち上げられたのが契機です。かかる動きのなかでは、アイヌを先住民として認めてしまうと、日本国には彼らを抑圧してきた責任と補償の義務が発生してしまう。北海道においては、土地の権利関係その他をめぐり、種々の訴訟が発生する可能性もある。そうしたことを見越して、北海道旧土人保護法が1997年まで維持され、2008年に至るまで「先住民」認定が回避されてきたのだと考えられます。沖縄の問題も、根っこは同じです。日本が沖縄をかつて琉球王朝という主権国家だったと認めていないのは、それを認めるといわゆる「琉球処分」が侵略であったことを肯定することになり、沖縄の意向を抑圧して基地整備などを進める大義名分が失われてしまう。まあそもそも、明治政府は廃藩置県を断行するために「琉球藩」を捏造したわけですから、最初から正当性などは微塵もないわけです。「沖縄はもともと本州と同じひとつの日本、国連勧告はその共同体意識を分断するもの」という発言は、まったくの欺瞞に過ぎません。