発掘された建物等がいかなるものだったか、どのように利用されていたかなどは、なぜ特定できるのですか。

難しい問題です。実際、建築物の痕跡以外に参照しうる資料がない古墳時代以前の遺跡などは、その役割や機能を考えるのが極めて困難で、曖昧な部分も大きくなってしまいます。掘立柱の穴があったとすれば、どれくらいの長さの柱が立っていたかくらいは想定できますが、実際の構造などは分かりません。よって、縄文中期の巨大建築物が出土した青森県三内丸山遺跡や、弥生時代の神殿として話題を集めた大阪府池上曽根遺跡の大型棟持柱建物などは、いまでもその復元をめぐって議論が絶えません。しかし、文字史料が伴うような時代になれば、それとの比較や、中国や朝鮮等類似文化圏の諸資料を参照することによって、ある程度蓋然性ある推測が導き出せるのです。いまお話ししている飛鳥諸宮の構造なども、中国の宮殿のあり方や、かなり明確に判明している藤原・難波・平城・長岡・平安諸宮の構造から類推をしています。ただし、それもあくまで現時点の仮説に過ぎませんので、新しい事実が見出されれば覆る可能性もあるのです。