2012-06-29から1日間の記事一覧

ハレの儀式に対し、日常をケやケガレというが、日常は差別的に考えられてきたのですか。

正確には、祝祭的時空間がハレ、日常的時空間がケ、喪葬的時空間がケガレ、ということになります。一説には、ケとは日常を生きるためのエネルギーのことで、毎日消費をされ続け、やがてケの枯渇した状態、すなわちケガレとなる。これを日常的状態に復帰させ…

幼い頃母親が、「今の子は想像力が足りないから、平気で人を傷つける」とよく言っていました。この「想像力」は、自分の行為によって他者が傷つくことが分からない、つまり他者表象の能力が欠けていると解釈してよいのだろうかと今回の講義を聴いて考えました。「今の子は想像力が足りない」というのは、学問の時代の流れを考えたうえでは、どの程度根拠があるのでしょうか。

確かにぼく自身にも、そうした感想を抱く出来事は多くあります。例えば、震災関係の授業を行ってリアクションをみても、その惨状を想像できず、利己的な観点からしか捉えられない学生も多い。メディアで採り上げられる少年犯罪の様子など、それを行ってしま…

私の父は、東日本大震災の現場で救助活動などをしていましたが、トラウマ的に言葉に出せないこともたくさんあると言っていました。戦争体験もそうですが、人間の経験を記述することそのものが難しいのではないかと思いました。

そうですね。テレビ等々で報道されているのは、本当に「きれいなところだけ」ですから、ご遺体の散乱するような現実の光景は、とても表現しきれるものではないでしょう。アウトプット自体に、大きな困難さが伴います。トラウマについては、かつては「話すこ…

他者表象の問題について考えてみたとき、歴史をみるという行為の究極的な目論見は、「自分」を理解するためなのか、「他者」を理解するためなのか、判断がつかない。先生はどう思われますか。

上の方の質問にも通じますが、自分/他者を二極分化して考えるのが問題なのだろうと思います。他者を理解することが、結局は自分を理解することになる。逆に、自分を理解することによって、他者への理解も深まってゆく。以前、フロイトのところで少し触れま…

社会学の勉強をしているときに、機能理論や紛争理論などを、自分が研究していること、明らかにしたいことに応じて選んでいくというような話を聞いたのですが、歴史学ではそのような立場は可能なのでしょうか。

例えばアメリカの歴史学研究は、それに近い構造を持っていますね。例えばデリダ、フーコー、ブルデュー、ギアーツなどさまざまな思想家の理論・方法を学びながら、対象と目的に応じて使い分けてゆく。確かに、いろいろな理論を当てはめて考えてみることで、…

「落としもの」としての実践的過去を追うとした場合、それは心性史のようなものを指すのでしょうか。それとも新たなジャンルではなく、既存のジャンル・研究にも結論として実践面を付与しろ、ということでしょうか。

ホワイトは、現在における歴史学の意味、人が生きることにおいて歴史学は何を提供できるのか、を問題にしているのでしょう。もちろん、歴史学的過去はひとつの前提でしょうが、それを絶対視することなく、また現在へ従属させることもなく、社会へ還元する方…

現在を生きる人々の宗教観が気になります。科学と宗教が並立することってありうるのでしょうか。 / ランケは、「進歩史観を否定しながらも国家の価値を重要視する」とのことでしたが、それが同時に成立するのはどうしてですか。

もともと、現在科学が担っている世界、宇宙についての説明付与という機能は、かつては宗教が担っていました。そういう意味では、もともと科学と宗教は近しいものです。近代においては、スピリチュアリズムやオカルティズムが科学と同居していました。エジソ…

他者がどういうものなのかは何となく分かりましたが、他者の反対側にある主体はどういうものなのでしょう。自分のどこからどこまでが主体として規定できるのでしょうか。例えば、多重人格の主体とは何なのでしょうか。主体の範疇がよく分かりません。

大変に重要な問いかけです。これまでの講義の枠組みは、近代学問のディシプリンを前提としていますので、主体とは確立された近代的〈個〉以外の何ものでもありません。しかしご指摘のとおり、その範疇では多重人格者等々捉えきれないものもでてきます。また…