2017-12-20から1日間の記事一覧

歴史を学習していたころからの疑問なのですが、遺跡や水田跡というのは、なぜ破壊されておらず、きれいとはいわないが、ある程度当時の形で発見されるのでしょうか。

縄文以降でも1万年以上にわたる日本列島の人類史において、もしその痕跡が破壊されずに残っているとしたら、いま都市が展開している平地などは、そこらじゅう遺跡だらけのはずです。しかし現実にはそうなっていないのは、大部分の文化痕跡が自然崩壊し、あ…

現在日本において、「芝山」といった地名が多く見受けられるのは、柴草山が広がっていたためなのですか?

基本的にそうです。芝山、柴山のほか、芝原、柴原、茅山、茅原など、用途に応じたさまざまな地名が残っていますね。

寒冷化や耕地拡大のために木を伐ったとのことでしたが、世界的にも同じ傾向があるのでしょうか?

例えばヨーロッパなどでは、森林は産業革命期と比較すれば、現在のほうが保護されて回復しています。ヨーロッパは、古代文明の起こった地中海の周辺で早くから森林伐採が進み、もともと森林のまばらな地域であったこともあり、樹木のない乾燥した空間を醸成…

源平の争乱で焼失した東大寺を再建するとき、再建用の木材を九州のほうから運んできたという話を聞きました。近畿地方では、森林の伐採が進んでいたためでしょうか?

重源の東大寺再建の基盤になったのは、九州ではなく中国地方、とくに周防国(現在の山口県)ですね。ほかに安芸(広島)、備前(岡山)なども造営料国に設定されています。重源は、畿内周辺では紀伊や伊賀などの荘園にてこ入れをしてゆきますが、やはり東大…

古墳寒冷期の国家形成について。世界史的にみて、生態系の生命力が強い温暖な地域は文化が発展せず、寒さの厳しい地域は発展していることと同じ理屈なのでしょうか?

同じとはいえません。そもそも、温暖な地方での文明発展がないという考え方自体、不正確であることは、エジプトやインドの古代文明をみれば明らかです。中国でも、比較的寒冷な地域の黄河文明と同時期に、南方の長江流域でも高度な文明が発達していたことが…

弥生時代の寒暖の差が激しい気候は、現在の四季のようなものが、もっと極端な振幅を持っていた状態ということでしょうか。すると当時、体調を悪くする人が増加したとは考えられませんか?

寒暖差が激しいといっても、グラフに示しているとおり、600年というスパンのなかでのことです。古気温曲線では、1年の間における微細な温度変化はデータ化できませんので、四季が大きな振幅で訪れるというわけではありません。ただし、気候が温暖期/寒冷期…

縄文時代には戦争はなく、平和であったと習いました。とすると、稲作伝来を契機に急に身分の上下が振り分けられたのでしょうか? それだと、少し不自然に感じられるのですが。

現在でも、狩猟採集社会に近い形態の民族社会は存在しますが、それらにおいては、一部への富の集中、それによる権力の偏重が禁忌とされてきました。集団で獲得した食料は、それぞれの貢献度の差違があろうと、可能な限り平等に再分配されたのです。縄文時代…

今回の講義を通して、高度経済成長というものが環境史的にはどのような位置づけになるのか、よく分からなくなってしまいました。山々に緑を戻した一方で、公害などの汚染もあったため。

非常に複雑な時代ですが、自然環境的にも、「地方農村が中央都市の食い物に位置づけられた時代」といえるかもしれません。都市への若年労働者の流入、人口の集中、第一次産業の衰退は、農業の衰退と農村の過疎化をもたらし、結果として里山の自然の回復を生…

森林伐採が以前から大規模に行われていたとして、ならばなぜ日本人は、昔から自然と共生してきたという言説が生まれたのでしょうか。 / 日本人のなかに、「緑は美しいから守らなければいけない」との考えが共通認識となったのは、いつのことなのでしょうか。

王権の政治的権威、寺社の宗教的権威を保持するために、森林の美観を保持しようとする考えは、古代からありました。仏教のなかにも、生命圏平等主義的な考え方から、動植物の殺生を忌む発想が同時に存在しました。個人の発想では、江戸後期の安藤昌益、近代…

かなり昔から人間によって自然に手が加えられていたことが、研究によって分かっている。このような事実を与えられると、「人間が手を加えない自然こそが良い」というイメージを押しつけられているように感じるが、果たしてそれは正しいのだろうか。

このあたり難しく、また微妙な問題です。手つかずの自然を至上とみなす考え方をピュアイズムといいますが、これは質問者の意見と同様、さまざまに批判されています。ただし、前回お話ししたアンスロポセンの問題を考えると、人類の活動が自然環境の回復能力…