父は、太平洋戦時下の教育で、「壬申の乱はなかった」と教えられたそうです。何か都合が悪かったのでしょうか?

以前のコメントにも書きましたが、大友皇子は明治3年(1870)に弘文天皇の漢風諡号を奉献され、明治政府によって、天皇として即位したものとみなされました。明治政府は、天皇を現人神という神聖な存在へ再構築しようとしていましたので、いわば謀叛によって現天皇が殺され奈良王朝が築かれるという歴史は、そうした価値観と相反するものとして処理されたのでしょう。「万世一系」の神話にも傷が付いてしまいます。喜田貞吉を休職へ追い込んだ南北朝正閏論争も、同根であるといえるでしょう。壬申の乱が普通教育の現場から消し去られたのは、明治19年(1886)の教科書検定制度と、同37年(1904)の国定教科書制度の開始によってですが、実はその際、「教育上為にならぬ事跡は教へてはならない」「児童の頭へ余計なことを多く注入する必要はない」とした文部省文部編修官こそ、上の喜田貞吉だったのです。