白村江の戦いに際し、倭は人質の豊璋を帰国させ王朝を再建されたとありましたが、こうした倭の政治的介入について、百済国内では反発はなかったのでしょうか?(書きかけ)

授業のレジュメにも書いておきましたが、660年、蘇定方率いる10万の唐軍、金庾信率いる5万の新羅軍の攻撃を受け、義慈王は降伏して唐へ連行され、百済は一旦は滅亡してしまいます。その後、百済旧地の支配は在地豪族に委任されますが、同年末には百済の遺臣鬼室福信、僧道琛らの反対勢力が挙兵し、彼らが倭へ、援軍と豊璋の返還を要請してくるのです。豊璋はもともと百済の太子であったにもかかわらず、何らかの政変によって祖国を追われ、義慈王にとっての反対派とともに倭へ人質として送られていました。福信らは、豊璋を旗頭とすることで、旧百済の残存勢力を結集しようとしたものと考えられます。662年、中大兄は豊璋らとともに25000の援軍を送り、福信らはこれを迎えて王に奉戴します。しかし、最終的にはこの2人に軋轢が生じ、豊璋によって福信が殺害され、復興軍は内部から瓦解してゆくのです。福信は義慈王の腹心の配下であり、豊璋が排斥された際にも主流派にいたと考えられ、豊璋には何らかのわだかまりがあったのではないかと考えられます。