なぜ、百済王家を包摂したことが「日本」の名に繋がるのですか。

「日本」という国名が、百済王家の包摂と関係するわけではありません。百済滅亡後の処理については、早く唐が前百済太子扶余隆を熊津都督に任命、遺領と遺民の統括を命令しています。しかし、隆は新羅の襲撃を怖れて赴任しなかったため、唐の将軍劉仁軌が検校熊津都督として代行しますが、結局新羅の攻撃を受け、百済の故地は同国へ吸収されてしまいます。このような情況にあって、天智朝では、帰国しなかった扶余豊璋の弟、扶余禅広を百済王族の生き残りとして庇護、歓待し、持統朝に至って「百済王」氏の賜姓を行い、公式にヤマト王権の氏族秩序のなかへ組み込んでゆきます。「日本」という国号自体は、中国でも太陽の運行に関わる世界樹=扶桑を倭のことと考えた時期があるように、太陽の昇る場所という意味でしょう。この国号と百済王族とは直接関わりはありませんが、百済を包摂した日本が、半ば中国王朝から蔑称のように名付けられた「倭」ではなく、「日本」を自称するステップボードにはなったものと考えられます。