中国の方式に倣っているなら、皇帝の代替わりによって遷都が行われるのが普通と思いますが、日本の古代ではなぜそうなっていないのでしょうか?
中国では、王朝が代われば別ですが、同一王朝では代替わりによっても、よほどのことがない限りは都は移動しません。古代の日本では、それが、天皇(大王)の代替わりごとに行われていました。一般にはこれは、中国などと比較して異常なこと、極めて非効率的なことといわれたりしますが、それは宮(大王の居所であり、政務の場)と都(ミヤコ=宮処、宮の置かれた場所)を混同しているか、都を藤原京以降の都城と同規模のものと誤解しているために生じるものでしょう。授業でもお話ししたように、飛鳥時代の初め頃までは、大王は幾つかのグループから実力重視で輩出されていました。すなわち代替わりごとに、大王の拠点となる場所が大きく異なることがありえたわけです。この時期は氏族制ですので、畿内の有力豪族が中心となって、それぞれの拠点と居館において、国政を世襲的に分担していました。彼らが大王宮に結集していたのが、具体的な王権の姿であり、すなわち代替わりごとに朝廷が刷新されている、それが歴代遷宮の実態であったといえるでしょう。しかし飛鳥時代になると、まずは葛城氏・蘇我氏といった王権と一体化した有力豪族の本拠との関係から、やがては中国や朝鮮を意識し飛鳥を儀礼空間として整備し始めたことによって、次第に大王宮が飛鳥一地域に連続的に設営されるようになりました。これを準備期間とし、やがて大規模な物資・財力・労働力を傾けた都城が造営されるようになると、遷都は容易には行われなくなるのです。その点、短期間に遷都を繰り返した聖武朝は異常ですが、難波京は中国式複都制を思考して孝徳朝のそれを整備したもの、恭仁京はやはり中国の洛陽に倣い、飛鳥時代から水陸交通の結節点であった泉木津を整備したもの、紫香楽宮はその洛陽に対する龍門石窟を意識し、仏教国家の象徴である大仏を造立しようとしたものと考えれば、東アジアの国際政治のなかでそれなりに意味のあったものだと理解できます。