都城の宮城部分に天皇の住んでいる建物があった、というところまでは分かるのですが、それ以外の場所には誰が住んで、どんな建物が建っていたのですか。

宮城の部分には、天皇の住居である内裏のほかに、政務の行われる朝堂院や、百官の庁舎が立ち並んでいました。宮城外の京の部分には、主要街路である朱雀大路や二条大路を忠臣に、基本的には宮城に近いほど高位の貴族の大邸宅が建ち、その他寺院や市場などが設置され、間を埋めるように下級官人や庶民の家宅が並んでいました。条・坊で細分化された1区画を町といい、それはさらに16分割された坪によって構成されていました(1坪は約135m四方)。平城京の宅地班給の規定は残存していないものの、同時期の副都であった難波京では、三位以上1町以下、五位以上半町以下、六位以下1/4町以下との記録が残っています。前代の藤原京では、右大臣4町、直広弐(四位相当)以上2町、大参(五位相当)以下1町、勤(六位相当)以下無位までは戸口に基づき上戸1町、中戸1/2町、下戸1/4町です。平城京の発掘調査・史料調査によると、現時点で最大の規模は藤原不比等宅の8町、ついで長屋王宅の4町であり、恐らくは長屋王宅が通常の最大規模で、不比等は例外的待遇とみてよいでしょう。近年、平城京南端から発見された遺構によると、一般庶民は1坪をさらに16分割した、狭隘な空間のなかで生活していたようです。