2015-01-07から1日間の記事一覧

日本の棚田の灌漑方法などを、もっと詳しく教えてください。

山間部に田を開くことは、古代から中世にかけてだんだんと進行し、現在みることのできる景観は、主に近世から近代にかけて成立したと考えられています。当初は、付近を谷川が流れている、豊富な湧水があるなど灌漑しやすい地域から開発され、井堰の設置や用…

日本の森林面積の部分で、林野が総土地面積に占める割合が、スライドとレジュメで違っていました。どちらが正しいのでしょう。

計算してみていただくと分かるのですが、プリントの方にミスがあったようです。訂正させていただきます。 ・現在(2011)の列島の森林面積 →林野面積約2486万㌶/総土地面積約3779万㌶ →林野は総土地面積の65.8%(内訳:森林約2447万㌶・草生地約39万㌶)・…

欧米の歴史教育では、過去と現在を連結させ思考させる教育が一般的になされているとのことですが、それは例えばどのような教育でしょうか。

いわゆる思考型の授業です。単に歴史の事象を記憶し、その説明について理解するだけではなく、なぜそのようになったのかを、自分の生きる現代社会に照らして考える、ということがよく行われます。例えば、日本でいえば、それこそ南京大虐殺や慰安婦問題のよ…

古気温曲線をみていると、これまで温暖な時期と寒冷な時期が繰り返し到来している。この先の地球も、必ずしも温暖化の一途を辿るとは限らないのではないか。

現在問題になっている地球温暖化は、主に二酸化炭素ガスの排出による温室効果を問題としたもので、これまで地球が経験してきたような自然現象ではなく、人為的要因によってもたらされる危険性があるものです。よって、過去の気候変動と同列に論じることはで…

最近流行している言葉に、「里山資本主義」というものがあります。現代人がより生活しやすいように、自然の力を弱めてゆくという動きでしょうか。

現在の日本列島の人口を里山的システムで維持することは不可能ですので、里山資本主義という考え方は、まったく実現の可能性のない絵空事と思います。まず、この構想には、環境史的な問題追究の視点がまったく欠落しており、例えば里山が形成された中世後期…

富山さんの主張は、先生のご指摘の通り確かに間違いであると思いますが、富山さんの主張では、植林をするなどの原始的な概念の定着について話をしているのであって、先生は、そうした概念の定着後の問題について話をしているように思えました。

こちらの説明が不充分でした、といいますか、次回に回してしまったので誤解を招きました。まず、富山さんの、「日本人は太古から木を植えてきた民族」という提言自体が、まったくのでたらめなのです。植林が一般化するのは近世以降で、古代においても、例え…

人間を自然の一部と捉えれば、里山などは太古からではないにしても、昔からの「自然」の風景として教えることもできるのではないでしょうか。 / 稲が租税として定められなければ、雑穀ももっと豊かに作られていたかも知れませんが、それは環境破壊にならないのでしょうか。

確かに、人間を自然の一部とみる視点も存在し、また重要な意味も持っています。しかし、こと環境破壊に関しては、そう見方を変えることでいかなる意味があるのか、再考してみなければなりません。エコナショナリズムと同様に、問題を単純化し思考停止を招く…

自然環境の破壊は、権力者の行動より庶民による行動の方が影響力が大きいと仰いましたが、米を税として庶民に納入させたのが権力であるならば、権力者も日本の自然環境に大きな影響を及ぼしているのではありませんか。

ああ、それはそうかもしれません。ちょっと表現が矛盾していましたね。権力の作った枠組みのなかで民衆がどう行動するか、ということですので、そういう意味では権力の力も大きいといえます。しかし、その部分だけを強調しすぎると、戦争責任などの問題と同…

「原風景」や「伝統」というものについて考えさせられた。先生は、「原風景」や「伝統」はいつできるとお考えですか? それとも、それらができあがることはないと思われますか?

「原風景」にしても「伝統」にしても、本来時間のなかで変化し続ける事象を、ある時間(多くは現代)を絶対化することで停止させてしまう概念です。「原風景」は、絶対化した時代の祖型といえるものを遡って位置づけたもの、「伝統」は、多くが近年になって…

気候の変動によって農業の形態にも変化があるのでしょうか。

もちろん、変動があります。生業全般ということでいいかえておきますが、例えば縄文時代には、温暖化に伴い針葉樹林や氷原が減少して狩猟対象であった大型哺乳類が消え、逆に海進により入り江が多く形成され堅果類を落とす温帯森林が復活したため、漁撈や採…

よく「平安時代は寒かったため、重ね着をしたことで十二単が生まれた」と聞きますが、古気温曲線をみる限りそうはいえないように思いました。実際はどうなのでしょうか。

寒冷化に適応した衣裳ではないでしょうね、寝殿造の構造からみても、当時は温暖であったのです。十二単は、薄い絹を何枚も重ね着し、その裏・表の色合い、襟元や袖口からみえる諸色の取り合わせによって、個性やセンスを表現したものです。経済的な意味では…