古墳時代に権力者を埋葬する際、一緒に生き埋めにされる人びとがいたとの話を聞いたことがあるのですが、それは事実なのでしょうか? / 埴輪は、いったいどのような人びとが制作していたのでしょうか? /埴輪の名前の由来は何でしょうか。
『日本書紀』垂仁天皇32年秋七7月甲戌朔己卯条に、大略次のような伝承が掲載されています。「皇后の日葉酢媛命が亡くなったとき、生きた人間を死の国への侍者として殉葬することについて、天皇は臣下たちに諮った。これに対して野見宿禰が、『君王の陵墓に、人間を生き埋めにするのはよくないことです。後世にどう伝わるでしょうか。私に考えがあります』と述べ、出雲国に使者を送って土部100人を呼び寄せ、彼らを指揮して、土で馬や人など様々な形を作った。そうしてその土形を天皇に献じ、『今後は、これらを生きた人間に変えて陵墓に立て、後代の決まりとしましょう』と申し上げた。天皇は大変に喜び、この土形を「埴輪」と名付け、皇后の墓に立て、『今よりのち、この土形を陵墓に立てるようにし、人を傷つけることのないようにせよ』と命令した。また、野見宿禰を篤く報償し、土部の職に任じて、本姓を改めて「土部臣」を名乗らせた。これが、土部連らが天皇の喪葬を司るようになった由来であり、野見宿禰は土部連らの始祖である。」埴輪の名称は、いうまでもなくこの伝承に基づいています。なお、殉葬の問題は、この伝承にもまことしやかに語られていますが、考古学的には確認されていません。中国王朝などには実例がありますが、日本古代では、少なくとも一般的ではなかったようです。あくまで、大王墓の造営や喪葬儀礼を統括した土師氏・土部の人びとの始祖伝承、一種の神話として語り伝えられたものと考えるべきです。
巨大な古墳を作るような稲作集団のほかに、アワ、ヒエ、ソバ、ムギといった雑穀を栽培して生活していたグループはいなかったのでしょうか?
弥生時代のところで述べたかもしれませんが、弥生〜古墳時代の雑穀生産は、考古資料としては極めて少量しか出土していません。また、山地における人間活動の痕跡を調べても、縄文時代まで高い山に登って狩猟していた人びとが、弥生時代以降は次第に高い山には登らなくなり、古墳時代にはそうした山地の神聖化が進んでゆくようになる。しかしだからといって、稲作が行えないような山地で、雑穀生産に従事していた人びとがいなかったと考えるのは早計です。のちの蝦夷など、狩猟や採集を主要な生業としていた人びとの存在を考えると、東海以西の地域にもそうした人びとが少なからず存在し、王権や水田村落と交易などを行っていたと想定されます。律令国家段階になってゆきますと、王権はそうした人びとへも支配の手を伸ばし、山海の産物を納める贄など、租庸調とは異なる形式の収奪を行って把握してゆこうとするのです。
縄文〜弥生にかけて、死者への畏怖は薄らいできたようにみえたのに、再び墓を厳重に密閉するような死者観へ戻ってしまったのはなぜですか?
古墳が縄文・弥生にみたような一般の人びとの墓ではなく、首長の墳丘墓であることが重要です。常人にはないような力を持つと信じられた首長、王の遺体だからこそ、呪術的な威力のあるものとして畏怖されたのです。一般の人物の遺体がすべて畏怖された、というわけではありません。
中期から後期にかけての古墳には、非常に大きな変化が起きているように思われるのですが、そのきっかけは何だったのでしょうか?
重要な質問ですね。幾つかの複合的要因によって生じたものと思われます。ひとつには、中国大陸や朝鮮半島からの新しい形式の導入です。これは、古墳時代における倭を取り巻く国際関係が次第に活発になり、中国南朝や朝鮮半島諸国と盛んに文物のやり取りがあったことと関わりがあります。横穴式石室や装飾古墳の形式が導入され、中期古墳のあり方を大きく変えてゆきます。二つには、首長に統括された地域の期待が、首長個人に対するものからその親族に対するものへ拡張されてゆく、そのことによって古墳が個人墓から家族墓へ変わってゆく点があります。これは、首長や王の継承が実力重視のものであった場合、必ず新王/旧王の交代期に混乱が生じてしまい、地域や地域王権のあり方が危機に瀕してしまうことから、中国などからの父系制継承原理などの導入もあり、ある血縁・親族へ王家が固定化し王統が構築されてゆくことを意味します。三つ目は、古墳時代も後期に入ってくると、首長や王の権威・権力を表現する装置が古墳以外にも成立してくる(古墳が担っていた機能が他のものへも分有されてゆく)、そのことによって古墳自体の象徴機能が低下してくることです。それによって古墳は小規模化し、一代ごとに巨大な墳墓を築くことがなくなり、やがて消滅してゆくことになるのです。
横穴式石室への追葬について、腐った遺体は再びきれいに包み直さないのでしょうか?
他の時代には、遺体を収集して洗浄し埋葬し直す「洗骨」という習俗が認められますが、古墳時代には一般的ではなかったと思います。以前の遺体が木棺などに納められている場合はよいのでしょうが、授業でお話しした遺体をそのまま寝かせてある場合などは、石室に入ると確実に腐乱死体を目にすることになります。布で覆うなどのことはあったかもしれませんが、…。
黄泉国神話では、ギリシャ神話でもオルフェウスやペルセポネの類似の話を確認できます。両者に類似点があるのはなぜでしょうか?
縄文か弥生のときにも同じような質問にお答えしましたが、とくにギリシャ神話と日本神話に限ったことではなく、世界中の神話にこのような類似点は多く確認することができます。そうした現象が起きる理由として考えられるのは、ひとつに形式の伝播(実際に人間が東西に大きく動くというより、中距離を動く人びとの間を、停留と移動を繰り返しつつ、長い時間をかけて、バトンのように情報が伝わってゆくのだと考えられます)、もうひとつに類似の環境下での類似の心性の醸成があって(例えば、気候・地形や植生がよく似た環境では、同じような動物が棲息し、それらに基づくよく似た衣食住の文化が醸成される。そのなかで、やはりよく似た心性や感性が培われるということです)、現実的には両者が組み合わさることで類似が引き起こされていると考えられます。
イザナギ・イザナミの黄泉国神話で出てきた葡萄、筍、桃は、何かしら意味合いがあって、作中で使われているのでしょうか?
桃については、中国の戦国時代という極めて古い時代から、辟邪のツールとして使用が確認されます。『周礼』に書かれた儺という悪霊祓いの儀式は、桃の弓や桃の枝を用いますが、そのまま日本にも採り入れられ、宮廷で追儺として斎行されます。葡萄や筍は、蔓が伸びる、筍自体が群体で生えどんどん大きくなる点で、やはり邪気を祓う生命力の象徴です。これらに基づき悪霊から逃れるというくだりは、実は「呪的逃走」と呼ばれる神話の一形式、一要素で、世界中に確認されるものです。日本列島でも、その後、昔話の「三枚のお札」などで、小坊主が鬼婆から逃れるためにお札を投げ、川や火の海を出現させるという展開が出てきます。
古墳時代の前方後円墳の分布図をみていると、畿内と東北・西南地域の隔絶性があまりないように感じられます。ヤマト朝廷ができてからは蝦夷や隼人が朝廷に反抗しますが、古墳時代にはそのような中央と地方という分け方は当てはまらないのでしょうか? / 群馬の古墳は、古墳時代を通じ、ヤマトから離れていたにもかかわらず近隣地域のものより大きいですが、なぜなのでしょう。
上の質問とも関係するのですが、前方後円墳が存在するからといって、その地域が面としてヤマト王権に従属していたわけではないだろうと思います。その支配の浸透の度合いは、やはり近畿を中心として、同心円状に疎密がある。東北の前方後円墳などは、その地域に屹立した豪族とヤマト王権が同盟関係、もしくは奉仕関係を結んだことを意味しますが、当の豪族の地域支配がどの程度のものだったのかという問題は残ります。大化の改新で中央集権国家を実現してゆく以前は、ヤマト王権の地方支配体制は、地方豪族を国造に任命してその私有地的支配を追認し、王権に対する一定の奉献を求めるというものでした。未だ個別人身支配にさえ至っていないわけで、地域王権のあり方は、例えば弥生時代のように、東北と近畿、九州ではずいぶん大きな違いがあり、緩やかな部分もあったのではないかと想定されます。なお、群馬県にはのちに上毛野を名乗る有力豪族がおり、その勢力が巨大な前方後円墳となって残っているのです。東国は長く王権にとっての戦力扶植地で、王権の警護を担った丈部(はせつかべ)などは、遠江国以東の東海道、東山道、北陸道の諸国、および出雲国・周防国などに存在しましたが、とくに東国に多かったことが分かっています。