2015-06-22 白村江の戦いによって百済の人々が亡命してきたとのことですが、現在でも百済系と自負する人々はいるのでしょうか。 / 百済遺民の亡命によって、倭国が政治面で得たものはあったのでしょうか。 / 百済との合体、という学説の根拠はどこにあるのでしょうか。 日本史概説 I(15春) 百済王家の子孫を標榜する人々がいます。日本に人質として送られてきていた百済義慈王の子息のうち、豊璋は復興百済王朝の王となり、白村江の戦いの後に唐に捕縛され流罪となりますが、日本に残った禅広王が「百済王」を賜姓され百済王氏の始祖となります。新羅は、朝鮮半島をも自国の範疇に組み入れようとする唐に反発、自らの管理下のもと名目上百済や高句麗を復興させますが、このような動きに対して倭は百済王氏を誕生させており、新羅の正当性に対して「百済は倭にあり」とのアンチテーゼをなしたものと考えられます。この禅広を祀る大阪の百済王神社の旧神主家三松家が、現在でも存続し百済王の末裔を自称しています。