懐良親王が、日本国王に一時的にでもなった理由が分からなかった。懐良が南朝の人間であるなら、後醍醐を国王にするはずであることに加え、今川了俊の侵攻との関係も分からなかった。了俊から侵攻を受けたなら、なおさら国王の地位を差し出すべきではないのか? / 懐良が明からの冊封を決意したのは、天皇より上位の後ろ盾が欲しかったからとのことだが、明などという新興国による国王公認などが、どれほどの力になったのか疑問である。

明に臣属して日本国王として冊封されることの利点は、やはりひとつは交易の可能性です。懐良は九州を独立した王朝と位置づけようとしていた節があり、明へ僧侶らを使者として派遣しています。彼らは中国で政争に巻き込まれて流刑となり、現雲南省の大理へ送られますが、同地で文人たちと交わした望郷の歌などが、近年新たに見つかっています。環東シナ海地域で最も力を持っていた勢力は、強大な元を最終的に駆逐した明であり、中国に統一王朝が開かれる常として、諸国が雪崩を打って朝貢関係を結ぼうとすることは目に見えていました。当初、国際感覚のなさから使者を切ってしまった懐良ですが、その後国際情勢をみて、冊封を受けた方が有効だと判断したのでしょう。交易の利は独立国にとって重要ですし、一旦冊封を受けて明に臣属すれば、北朝方も簡単には手を出すことができない。また、伝統的に海外交通を担ってきた北九州や中国・瀬戸内地方の武士たちは、明との関係から懐良と結ぶことを選ぶかもしれない。そうした計算が働いたのでしょうが、今川了俊がそれよりも早くに手を打ってきたということでしょう。