草肥(刈敷)以外にも多様な肥料があり、人や牛馬の糞尿を利用した下肥などは一般的だったと思うのですが、江戸期には行き渡らなかったのですか。

中世後期から広がってきた草肥が一般的でした。下肥なども使用されていましたが、とてもすべての水田に行き渡るには至らなかった、それほど水田の規模が巨大になっていたのです。次回の授業でもお話ししますが、しかし草山・柴山も水田化されてゆくことで刈草の確保ができなくなると、金銭でやりとりされる肥料が浸透し始めます。ただしそれらは金銭がなければ入手しえないわけで、そのことによって農村社会の貧富の差が拡大してゆくのです。