どうして藤原種継は、暗殺されたのでしょうか? / 藤原種継の件ですが、罪人の処刑方法として、弓での射殺は一般的だったのでしょうか? / 「射殺」は、具体的にどのようになされたのでしょうか。

事件の記録は案外に短く、詳細はよく分かりません。正史『続日本紀延暦4年(785)9月乙卯(23日)条には、「中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種継、賊に射られて薨ず」、続く9月丙辰(24日)条には、「車駕、平城より至る。大伴継人、同竹良、并びに党与数十人を捕獲し、之を推鞠するに、並に皆承伏す。法に依りて推断し、或は斬し或は流す。其れ種継は、参議式部卿兼大宰帥正三位宇合の孫なり。……(延暦)三年、正三位を授く。天皇甚だ委任し、中外の事を皆な取决す。初めて建議を首し、長岡に遷都す。宮室を草創するに、百官未だ就かず。匠手役夫、日夜兼作す。平城に行幸するに至りて、太子及び右大臣藤原朝臣是公、中納言種継等、並び留守を為す。炬を照らし催検するに、燭下に傷はれ、明日第に薨ず」とあります。この頃にはすでに遷都が行われ、桓武は長岡宮にあって政務を執り、種継は宮都の完成へ向けて突貫工事を続けていたようですが、桓武平城京へ一事行幸していた折の夜分、何らかの形で射殺されたようです。一般的にはこの事件は、長く都であり仏教勢力の根づいた平城京を放棄することへの、反対勢力が引き起こしたものと考えられています。授業でも触れましたが、早良親王は仏教勢力と密接に結びついた人物でしたので、彼や伝統的名族である大伴氏を排除することで、光仁の頃から続いた旧体制の整理がひとまずはついた、ということになるでしょう。しかし実は政情は未だ不安定で、桓武の子の平城天皇が式家との繋がりのなかで平城京還都を強行しようとするように、支配層内でも水面下での闘争が続いていたものと思われます。