新羅が唐に対する姿勢を変え、融和から対立、攻勢に転じたのはなぜでしょうか。

非常に複雑な問題なのですが、背景には、唐の帝国的版図が大きく動揺し始めたことに原因があります。一時期唐に臣従していたチベット吐蕃が、唐の注意が東方に向き始めた660年前後より拡大を開始し、白村江の戦いのあった663年、吐谷渾にあった傀儡政権を滅ぼします。以降、680年に到るまで境界の諸城を陥落させ、広大な支配地を確保、唐に比肩する大帝国へ成長してゆきます。この動きに触発されたのが、やはり一度唐に滅ぼされ支配を受けていた突厥遺民で、683年には唐の単于都護府を陥落させ、第二帝国を復興してゆくのです。唐は、主要な将軍、主要な兵力を、西北の戦線へ派遣せざるをえなくなりました。新羅はこの隙につけ込み、まずは旧高句麗領、続いて旧百済領へ勢力を伸ばし、唐の勢力を駆逐しては謝罪使を派遣するなどの外交を駆使し、最終的に半島を全面的に支配することに成功してゆくのです。新羅も本来、他の高句麗百済と同様に、朝鮮半島の統一と中華王朝からの相対的独立、すなわち〈古朝鮮〉の復興を目指していたことは間違いありません。倭国が唐からの侵攻を受けなかったのは、このような東アジア情勢の大きな変化によります。