平城京に遷都したあと、藤原京にはどれくらいの人びとが残ったのでしょうか。
実はこのあたりのことも、分かっていないことが多いのです。藤原京の京戸は、やはり周辺に住む人びとが集められたと思いますが、人口のほとんどは国家を運営する貴族や官人層であったはずです。宮殿も移築され、大官大寺、薬師寺、法興寺(元興寺)、厩坂寺(興福寺)など、京内の寺院も多く移転し、自然発生的な都市ではなかった藤原京の機能は、大部分失われてしまったはずです。考古学的発掘によると、宮域は早期に荘園化してゆき、宮殿を建てるために盛り土をした場所には、荘園を管理するための建物が造られていったようです。京域に残った寺院に奉仕する人びとや、もとから周辺地域に本貫を持っていた人びと以外は、ほぼ平城京へ移転するか、自分の本拠地へ分散してしまったと考えられます。