ヨーロッパ諸国が北回り行路で北米に侵入した遠因としてキリスト教の習俗が関係しているなら、キリスト教含め宗教が自然の迫害を推進する一番の加害者である、と位置づけられますか?

もう遠い昔に共編の本に書いたことですが、確かにリン・ホワイト『機械と神:生態学的危機の歴史的起源』以降、今日の地球規模の環境破壊の淵源はキリスト教にある、という見方が人口に膾炙しています。事実、授業で扱っている大航海時代以降の植民地収奪については、キリスト教が引き金を引いている文脈もなきにしもあらず、です。しかし、例えば『旧約聖書』創世記にみる人間の位置づけ、人間のために他の動植物があるという位置づけは、世界の資源化の原理であるようにもみえます。しかし近年は、創世記の同じ部分が環境保全の原理として認識され、「人間は神が世界をお作りになった状態が維持されるよう、保全する責任を持つ」という意味に解釈されています。つまり、宗教の論理が環境破壊を引き起こすかどうかは、やはり時代的・社会的条件に大きく左右されるのです。そうしてどちらかといえば、宗教は後付けの正当化の論理として利用されており、環境破壊の中核を生み出しているわけではないのです。前回の授業でも触れましたが、また例えばユダヤキリスト教の核ともいうべき牧夫の思想は、西アジアにおけるドメスティケーションの知識・技術から派生したものです。宗教から家畜化が始まったわけではなく、家畜化を通じて宗教が創られていったわけです。

イギリスやフランスが交易で先住民に武器や火薬を渡したとして、彼らはそれを効率的に使用できたのだろうか。また、抵抗活動に利用されたら逆に困るのではないか。

まさにそのあたりのことが、交易のポイントなのでしょう。ヨーロッパの武器や火薬は先住民の間で珍重されましたが、当然そこには、それが(最大限には)有効活用されないような配慮があったと思われます。まずは価格の問題、極めて高値で取引することによって、数量的な浸透の程度を調整する。最新鋭の装備は販売しない、という配慮もありうるでしょう。日本の幕末の場合もそうでしたが、場合によっては対戦国になりうるような、しかもヨーロッパにとって〈未開〉な国に回されてくる武器の大半は、本国では旧式になり需要のなくなったものです。また、銃器にしても火薬にしても、それを整備したり生産したりするには知識・技術が必要であり、それらを供与しなければ、先住民社会の武器使用は半永久的に交易に依存することになる。それらを使いこなすためにも、西洋式の軍隊調練をはじめ、一定の組織編成や訓練が必要になってくる。以上のようなことを勘案しながら交易をしていれば、先住民にとってヨーロッパ式の武器や火薬を、一定の期間は珍奇な宝物に留めておくことが」可能でしょう。

アメリカ先住民の女性たちのうち、交易者の妻になった人々について、会社間の競争が激化するとお互いが彼女たちを利用するようになったとのことですが、その経緯がよく分かりませんでした。

ぼくの説明の仕方が悪いのですが、まずは、先住民女性に対する認識が多様であったこと、やはり根底にはヨーロッパ至上主義的な差別意識が存在したこと、また当時は白人と先住民との区別なく男性優位の社会であったことが前提です。女性が、男性によって道具として扱われることが、まず珍しくないのだということ。よって、先住民女性である妻が、例えば奥地へ赴く旅行や交易について有能であればあるほど、例えばライバル会社の男性たちは彼女を掠って人質にし、相手に要求を通す選択肢が生じることになる。また、なかには彼女たちに愛情を持っていない白人男性や、それが冷めてしまった人々もあり、彼らにとって、例えば借金の形にそうした「有能」な女性を売り飛ばしたり、あるいは手土産にしてライバル会社に乗り換えたりする、そういうひとつのツールになっていってしまったわけです。一方で、しっかりした夫婦の絆を獲得したり、自立した妻としての立場を認められた女性たちがいたにもかかわらず、かかる酷い情況もあったのです。

ナショナル・ヒストリーは国家を正当化するためのもの、とのことだが、その正当化は誰に向けられているのか。国家は事実存在しているのに。

国家が厳然として存在し、正当化する必要がないと感じるのは、まさに国家によって「自国を正当なものとして認識する」教育が達成されているためです。なぜなら、ぼくらの世代はつぶさにその状況をみてきましたが、国民国家が統治の正当性を失って崩壊してゆくことは、歴史上何度も繰り返されているからです。ソ連しかり、東欧諸国しかり。この世界には、近代以降に国民国家として再編成され、以来ずっと存続している国もあれば、第二次世界大戦後に新しく独立した国々もあります。逆にいえば、いま存在する国家が、いつ正当性を失って崩壊してもおかしくはないのです。授業でお話ししているとおり、日本の場合にも、例えば明治維新は、近世の幕藩制国家が正当性を失い、近代国民国家として再構成された出来事です。しかし、列島内には明治政府のあり方に意義を唱える政治集団は、いくらでも存在したわけです。それゆえに彼らは、自分たちを正当なものとして位置づける物語り=歴史を必要としたのです。現状を正当化するために直前の過去を否定し、それよりさらに以前の過去を持ち出すなど、歴史を利用することは国家正当化の常套手段です。

ナショナル・ヒストリーの機能からすれば歴史教育は記憶型にならざるをえない、とのことでしたが、現在も強い国民国家を構築しようとしている国では、歴史研究は発展しないのでしょうか。

歴史教育と歴史研究の関係がどのように位置づけられているか、ということに関係すると思います。例えば、強固な国民国家を建設するために国家が歴史教育に介入してゆくとしても、歴史教育にある程度の自由が保障されているならば、学問としての歴史研究には幾分かの発展があるでしょう。逆に、前者の度合いが強すぎ、研究の面をも束縛するような事態、例えばあらゆる学問研究が国家に奉仕することのみを求められるならば、発展は大いに阻害されます。かつての専制国家、全体主義国家において、歴史学はそのような立場に追い込まれました(大日本帝国も含めて、です)。ただし、現在はインターネットも発達し、あらゆる面でグローバリゼーションが進んでいますので、国家がいかに学問を束縛しようと努めても、海外からさまざまな情報が流入してきます。インターネットを完全に封鎖し、国家全体がstand aloneの状態にならない限りは、学問を抑制的にコントロールすることは難しいでしょう。……と書きつつ、しかし日本の場合は、インターネットが遮断されているわけでも、種々の情報が強固に隠蔽されたり軒並み改竄されているわけでもないのに、専門研究が大いに阻害され発言権を失いつつあります。情報に情報を重ねてゆくことで社会を飽和状態にし、人々のリテラシー能力が奪われ、事実の価値さえ低下してしまっているのです。何が信頼できる情報か分からず、人々は権威、権力に裏付けられた方向へ流れてゆく。怖ろしい事態になっていると思います。

2020年より思考型歴史教育の授業として「歴史総合」が始まるに際し、国家の介入があるとすれば、それは実現可能なのでしょうか。あるいは、単なる記憶型ではない授業によって、ナショナル・ヒストリーに限定されることは回避できますか?

重要なポイントです。講義でも少し触れたのですが、思考型授業の有意義な点のひとつは、記憶への定着が強まることです。単に受け身的に、教員の話し説明したことを記憶してゆくより、自ら調査し、史資料を解釈し、考え、複数の人たちと議論して到達した見解のほうが、強く印象に残りやすい。自分の力で、研究の成果を獲得したのだという達成感も、大きく影響するでしょう。しかしよく検討してみると、これは両刃の剣です。もし思考型の授業の議論が、教員によって巧妙に、一方向へ誘導されていたとしたら。あるいは逆に、力不足の教員によって、学校や国家の求める方向へ落着するよう進められたとしたら。辿り着いた場所が同じナショナル・ヒストリーであっても、これまでの記憶型以上に、思考型がその傾向を強めてしまう、ナショナル・ヒストリーを堅固にしてしまうということがありえます。「歴史総合」がいったいどこへ向かうのか、しばらく注視しておく必要があるでしょう。

バイト先の塾の障がいのある子は、警察官になりたいのですが、特別支援学級に入ったらなれないので、母親が諦めさせようと苦心しているそうです。電車の運転手や警察官など、責任の重い職業に障がい者が就くことができないのは、「合理的な配慮」なのでしょうか。

非常に難しい問題ですね。就職をめぐるバリアフリーをどこまで進められるか、それは社会を構成している私たちひとりひとりの思考、行動にかかっていると思います。「警察官やパイロット、電車やバスの運転手など、ある程度の運動能力と思考力をもって、他人の生命を預かるような職業には、障がいを持った人間が就けないのは当たり前だ。何か間違いがあって、本人がその障がいのために極めて思い負債を背負うことになったら、それこそお互いに不幸になるじゃないか」……そう考える人もあるでしょう。あるいは逆に、そういう考えが「合理的」だと思ってしまうように、社会や職業のあり方が構築されているのだから、その根本を変えてゆくことこそがバリアフリーだ、と考えることもできると思います。ぼくはどちらかというと、後者です。現実社会においては、障がいのあるなしにかかわらず、誰もが希望の職業に就けるわけではありません。知識や能力があるのに、別の理由で排除されてしまうひともいれば、必要な条件を満たすことができずに諦めるひともいるでしょう。しかし、希望の職業を目指してよいという可能性は、万人に開かれているべきです。そのためには、法律や制度を変える、職業の概念を変える、社会の仕組みを変える、新たな職種を創り出す、障がいを持つひとをサポートする器具・機械を開発する……まだまだいろいろなことができるだろうと思います。なかなか充分な状態には至らないでしょうが、〈開放〉へ向けての意識をみなが持ち続けることこそ、大切なのではないでしょうか。