ナショナル・ヒストリーの機能からすれば歴史教育は記憶型にならざるをえない、とのことでしたが、現在も強い国民国家を構築しようとしている国では、歴史研究は発展しないのでしょうか。

歴史教育と歴史研究の関係がどのように位置づけられているか、ということに関係すると思います。例えば、強固な国民国家を建設するために国家が歴史教育に介入してゆくとしても、歴史教育にある程度の自由が保障されているならば、学問としての歴史研究には幾分かの発展があるでしょう。逆に、前者の度合いが強すぎ、研究の面をも束縛するような事態、例えばあらゆる学問研究が国家に奉仕することのみを求められるならば、発展は大いに阻害されます。かつての専制国家、全体主義国家において、歴史学はそのような立場に追い込まれました(大日本帝国も含めて、です)。ただし、現在はインターネットも発達し、あらゆる面でグローバリゼーションが進んでいますので、国家がいかに学問を束縛しようと努めても、海外からさまざまな情報が流入してきます。インターネットを完全に封鎖し、国家全体がstand aloneの状態にならない限りは、学問を抑制的にコントロールすることは難しいでしょう。……と書きつつ、しかし日本の場合は、インターネットが遮断されているわけでも、種々の情報が強固に隠蔽されたり軒並み改竄されているわけでもないのに、専門研究が大いに阻害され発言権を失いつつあります。情報に情報を重ねてゆくことで社会を飽和状態にし、人々のリテラシー能力が奪われ、事実の価値さえ低下してしまっているのです。何が信頼できる情報か分からず、人々は権威、権力に裏付けられた方向へ流れてゆく。怖ろしい事態になっていると思います。