2020年より思考型歴史教育の授業として「歴史総合」が始まるに際し、国家の介入があるとすれば、それは実現可能なのでしょうか。あるいは、単なる記憶型ではない授業によって、ナショナル・ヒストリーに限定されることは回避できますか?

重要なポイントです。講義でも少し触れたのですが、思考型授業の有意義な点のひとつは、記憶への定着が強まることです。単に受け身的に、教員の話し説明したことを記憶してゆくより、自ら調査し、史資料を解釈し、考え、複数の人たちと議論して到達した見解のほうが、強く印象に残りやすい。自分の力で、研究の成果を獲得したのだという達成感も、大きく影響するでしょう。しかしよく検討してみると、これは両刃の剣です。もし思考型の授業の議論が、教員によって巧妙に、一方向へ誘導されていたとしたら。あるいは逆に、力不足の教員によって、学校や国家の求める方向へ落着するよう進められたとしたら。辿り着いた場所が同じナショナル・ヒストリーであっても、これまでの記憶型以上に、思考型がその傾向を強めてしまう、ナショナル・ヒストリーを堅固にしてしまうということがありえます。「歴史総合」がいったいどこへ向かうのか、しばらく注視しておく必要があるでしょう。