2007-12-21から1日間の記事一覧

私は法学部で、歴史学のレポートといってもピンとこないのですが、歴史学の論文を書くうえで一番重要なことは何でしょうか。

とにかく史料を独自の視点で読み解き、新しい歴史像を構築することが論文の核です。そのためには、膨大な研究史の整理と批判のうえに立った問題点の指摘、史料批判の力、厳密な実証に裏付けられた想像力などが、研究主体に備わっていなければなりません。研…

参考資料として配付された『面部気色吉凶法』についてですが、顔にも気の流れがあるのでしょうか。また、それは法則的なものでしょうか。

詳しいわけではないのですが、五行や陰陽の思想はあらゆる占いの前提になっているので、相書の類にもそのように考える系統が確実に存在したということです。占いとはいえ、前近代的な意味ではひとつの科学ですから、そこには当然一定の法則性が設定されてい…

式盤の天盤部分の中心には北斗七星がありますが、どのような意味があるのでしょう。

北斗七星に数えられる星は、地域や時代によって変化があるのですが、やはり天の中心=北極星に連なる点が重要なのでしょう。北極星は天帝の座す星で、紫微宮などともいわれます。

古代において、歴史書などには動物がよく出現するように思います。当時は動物と共存していたから、あるいは特別な信仰心があったからだと思うのですが、その成り立ちや理由に興味があります。

ぼくも大いに関心があります。以前に「日本史概説」で話をしたときには、動物は人間にとって自然界の多くの情報を知るためのメディア(媒介)であり、自然のなかで生きてゆくためには必要なものであった。ゆえに現在でも、親は子供にぬいぐるみやペットを与…

史料3に流星についての話がありますが、当時の考え方では流星や彗星は不吉なものだったのでしょうか。

やはり「星が落ちる」「星が流れる」という現象だからでしょうか、世界的に不吉の象徴とする見方が多いようです。古代日本のそれは、多く『漢書』や『後漢書』の天文志の記述に基づいています。

『日本書紀』が正確な編年体ではないということに驚きました。日本の他の編年体の書物や、中国の史書にも、同じようなことがあるのでしょうか。

編年体に講義で紹介したような記事の配列があるのは、本来は錯簡ということで、原則から外れた例外的な状態になります。『書紀』の場合にそれが特徴的に認められるのは、やはり初めての中国的史書であるという混乱や、史料自体の産出・保管体制の不充分さか…

僧旻にしても南淵請安にしても、良家の子弟が通うような私塾を開いていたということですが、個人的に子弟の親から資金を集めて開いていたのでしょうか。

さあどうでしょうか。僧旻の私塾にしても請安の私塾にしても、いまひとつ実態がよく分からないのですが、公的なものでないとすれば月謝のようなものを集めていた可能性はありますね。あるいは、蘇我氏のような大豪族をパトロンに付けていたことも考えられま…

外来の僧というのは、渡来人と同じ扱いなのでしょうか。それとも、国の庇護下に入るのでしょうか。

原則的に令制では、日本に存在する人民は(国家が把握できなような漂白民、蝦夷など化外の民を除き)戸籍に編入されるわけですから、渡来人も(帰化したなら)公民と同じ扱いになります。一時的に寄留しているだけの留学僧、国家が招いた学問僧らは、治部省…

山背大兄の死が『書紀』と「大織冠伝」で違うのは、後者が蘇我の非道を強調しようとしたからでしょうか。

全体の文脈を通してみますと、実は『書紀』の方が、蘇我氏を中傷する記事(主に天皇に対する僭越な行為の数々)を多く載せています。「大織冠伝」の第四節では、蘇我氏は五巻末の暴臣董卓に準えられていますが、一方で入鹿の才能を高く評価する言辞もみられ…

鎌足は軽皇子の器量に疑問を持ったとありますが、度々逸る中大兄には疑問を抱かなかったのでしょうか。

「大織冠伝」の文脈は、諫言をする忠臣/広い度量で受け入れる名君、という君臣関係を描き出すために述作された虚構でしょう。君主の政は聴政といわれるように、家臣の言によく耳を傾け公正に判断することこそが重要なのです。ゆえに、逸る中大兄を描くこと…

蘇我氏の蔵の管理なども「宗業」に当たるのでしょうか。

倉山田家の宗業ということですね。蘇我氏の諸家は、分析を加えてみると、内政と総括を担う本宗家、外交・対外軍事を担う境部臣(阿倍氏の配下にあって境界儀礼を掌っていた境部を統括、阿倍・安曇氏などとの協力のもとで)、財政を管理する倉山田臣(斎蔵を…

仲麻呂に描かれた〈鎌足〉は、僧旻によって観られた〈爻〉の内容まで知っていたのでしょうか、「自愛せよ」の忠告だけで何かを悟ったのでしょうか。それとも、鎌足の自由意志に基づく行動が、たまたま結果的に乾卦に対応していた、というところが「大織冠伝」のミソなのでしょうか。

面白い質問ですね。次回お話しする三島退去の部分では、「大織冠伝」は鎌足が易筮を行い、出た卦に従って行動しているようにみえます。そこでは乾卦について語られてはいないのですが、彼が卦の内容について自覚的であった(と描かれている)ことがうかがえ…

「僧旻」が正式な名前だというのが印象的でした。僧侶にわざわざ「僧」の字を当てるのはおかしな気がするのですが。

僧旻虚構説が事実とすれば、なぜ道慈は大僧の名である「僧旻」を採用したのでしょうか。

そこがやはり解釈論になってしまう、問題点のひとつですね。ただし、仏教公伝から崇仏論争に至る流れもそうですが、『書紀』は、中国北朝・南朝の仏教史をモチーフに記事を述作している形跡があります。南朝の仏教国家梁において、皇帝を補佐するような高僧…