2014-04-01から1ヶ月間の記事一覧

刈敷のために生まれた草山や芝山からは土砂崩れが発生し、河川の洪水なども多発したそうですが、人々はその度に復興に尽力したのでしょうか。洪水が起きないようにする工夫はなかったのですか。

共同体のなかには、普通、自然環境の持続的な利用を可能にするための様々な慣習、決まりがあるものですが、権力による強制や災害などの問題が生じると、それが遵守されなくなり一気に破綻してゆく場合もあります。江戸期の草山、芝山がもたらす災害の場合は…

刈敷のもとになる芝や草を育てるため、広範囲で樹木が伐採されたそうですが、樹木は食糧としても建材などとしても必要性が高かったと思います。そのあたりはどのように両立されていたのでしょうか。

一般に里山には、草肥や牛馬飼料を採る草山・柴(芝)山、茅場、薪炭材や木製品の材料を得るための雑木林、建材を得るための杉林などが持続的に維持されていましたが、近世を中心とする時代には、いわゆる年貢を納めるため、そのうち草山・芝山の占める割合…

緑が少なかったとはいえ、日本には八百万の神々がいて、小さな山や森にも信仰があったと思います。個人的には、鬱蒼とした山の方が信仰は多そうだと思うのですが、そのような里山の時には自然への信仰はあったのでしょうか?

いわゆる八百万の神、森羅万象に神性を見出すアニミズム的な思考は、日本の共生文化の特徴のひとつだと考えられています。それは一面では正しいのですが、一面では間違っているといえるでしょう。なぜならアニミズム的思考は、必ずしも、現在の我々が認識し…

桃源郷など、中国の思想が、昔話などを通して民衆にも浸透していたことが分かりましたが、民衆の間には、「これは中国の思想だ」という自覚がどの程度あったのか、時代によって違いや変化はあるのか気になりました。

そうですね。日本の文化は、東シナ海を挟んで朝鮮半島や中国大陸のさまざまな文化と繋がり、渾然一体となっています。その多くは、一般の生活者にとって、「中国由来」とは自覚されていなかったでしょう。桃や神仙の文化にしても、遙か古墳時代から列島へ入…

教科書的叙述の問題性については、誰しもが考えることと思います。それなのになぜ、日本は「単語だけの記憶」といった教育法を続けているのでしょうか。

実際の教育事情は学校でそれぞれ異なると思いますが、ひとつはやはり、国民国家による国民「生産」方法としての歴史教育のあり方にあると思います。文科省などの最近の傾向では、一方では思考型の歴史教育の必要性を喧伝していながら、一方では政府の公式見…

日本史を世界史のなかで捉え直すというところで、「東アジア」から「東部ユーラシア」へという話がありました。地域名を言い換えたところで、捉え直すことになるのでしょうか。むしろヨーロッパ中心の考え方になってしまうのではないでしょうか。

これについては講義でもお話ししましたが、少し分かりにくかったかもしれません。現在の歴史学における「東アジア」という枠組みは、中国の冊封体制に淵源する政治的・文化的まとまりを指していますが、近年ではこの枠組みを超越した歴史的関係が明らかにな…

理論がなく個に依拠したものは、歴史というより単なる事実であり、過去を包括的に捉えられないので、理論・原理的な捉え方が必要と思います。先生はどうお考えですか?

2012年春学期の「日本史特講」で「歴史学のアクチュアリティ」と題する講義を行い、歴史学の理論・方法論について半期を通じて考えてみたことがあります。現在及び過去を認識するということ自体、実は何らかの理論なしには行えないことなので、仰るとおり、…

国によって歴史の考え方に相違があることの理由が分かりました。他のアジアの国々の教科書では、歴史はどのように書かれているのか気になります。

基本的に国家主義的な記述が多いですが、例えば中国・韓国・日本のように、歴史学者が協力して互いを理解し合う平和的教科書作りを目指そうという試みも、何年も前から行われています。日本の報道では、領土問題などのこともあり、お互いを扇動するような報…

心性史における「事実」とは何を指すのか分かりません。恐怖、感動などは幾ら調査をしたところで、多数派を「事実」として認めることにしかならないのではないでしょうか。

確かに、もともと心性史で扱っていた心の動きなどは「集合的なもの」なので、「一般的」なものの考え方、「普通」のものの考え方が重視されてきました。それはとりもなおさず、それまでの歴史・歴史学が、「特別」な人たち、「特別」なものの考え方だけを対…

私たちは、どうすれば「絶対に正しい歴史」を得ることができるのでしょう。 / 歴史の真実は、目撃者がいかなければ明らかにならないのでしょうか。

「絶対に正しい歴史」とは、捏造されていない、正確な、という意味でしょうか。この点は、ポストモダン的観点からすると、「不可能」ということになってしまいます。なぜなら、例えばある事件に関し目撃者が存在したとしても、その目撃者を通じて判明するの…