2015-05-15から1日間の記事一覧

「天平勝宝八歳」の「歳」には、どのような意味があるのですか。

これは、藤原仲麻呂の唐風化政策によるもので、『旧唐書』本紀/玄宗/天宝3載条に、「正月丙申、年を改めて歳と為す」とある政策に拠ったと考えられています。

中国では、優秀なエリートしか官職に就けなかったのに対し、氏族制の強かった日本では、その意味で身分の低い者も重要な職務に就きえた。一般庶民がそういった役職にうまく順応できたのでしょうか。

庶民といっても、氏族制下で特殊技術を持つ者、その職務を果たすべき者として教育されていますので、問題はなかったと思います。しかし女医などは、果たして官戸・官婢からあらためて教育するものですので、果たしてどれだけ効果が上がったか疑問があります…

牛乳は当時から飲まれていたのですか。 / 典薬寮では乳戸から牛乳を得ていたとのことですが、どのように運搬されたのでしょうか。生乳では難しいと思うのですが、何らかの加工を施されたのでしょうか。

確かに腐敗の心配はありますが、薬園と同様宮廷の至近に設置されていたのでしょう。宮廷や寺院でも、乳牛を飼育していた記録は残っています(宮中にあった典薬寮別所乳牛院など)。当時の貴族の食生活で乳製品の占める位置は小さくなく、食用・薬用として珍…

平城京の薬園には、輸入された種や苗も植えられていたのでしょうか。いま、漢方薬の本をみると、同種植物でも、日本のもの、中国のものが別の薬剤とされています。

実は、詳しいことはよく分からないのですが、輸入のものは薬種として入ってくるより、調合された薬剤として入ってくる方が多かったようです(環境の相違から栽培できないものも多かったと考えられます)。唐、新羅、渤海との通交のなかで、多くの香薬がもた…

国ごとに配置された医師・医生は、誰を対象に医療を行ったのですか。 / 宮廷以外の一般村落などでは、医療はどのように行われていたのでしょうか。 / 地方の医療は有料だったのでしょうか。

国医師は諸国の医療や医生の教育のほか、典薬寮へ輸進する雑薬の確保、造薬のほか、調使や検田使、班田使として地方行政の代理的業務も担ったようです。問題の医療に関しては、まず官人身分の治療が第一でしょうが、国守の「百姓を守養す」との職務に相応し…

古代において、薬剤などは有用か有用でないか次第に分類されていったのだと思いますが、呪術もそのように効果があるものが残されていったのですか。

呪禁師の治療の成否は、どのように判断されたのでしょうか。 / 呪術はいつまで正式な医術と認識されたのでしょうか。 / 呪術は実際に効果があったために、律令に定められたのでしょうか。それとも思い込みによるものですか。

経絡図に生殖器がなかったのですが、そこまでは針は打たないのでしょうか。

生殖器関係に関連するのは任脈、もしくは督脈です。ちょっとここに書くのは問題があるかもしれませんので、あとは自分で調査を。

針の学問は、当時どの程度効果があったのでしょうか。また、人間の身体に針を刺すという行為は、かなり怖ろしいものだと思いますが、どのように確立した治療法なのでしょうか。

当時の外科の治療は、具体的にどこまで行われたのでしょうか。身体を切る、ということまで行われたのですか。

三国魏の伝説的名医華陀は、『三国志』や『後漢書』の伝において、「麻沸散」による全身麻酔を考案し、腹部開腔手術を行ったと記されています。またこれより先、『漢書』王莽伝では、王莽が王孫慶という人物を捕え、医学のために解体し経脈を確認したとの記…

内薬司で天皇への処方のため薬を試みる際、死亡例などはあったのでしょうか。有能な人材をそうしたことで失ってしまうのは、効率的ではないのではありませんか。

記録上はよく分かりません。しかし、自分の生命においても、天皇の生命の問題からしても、御薬の調合と供進は緊張を強いる作業であったようです。平安時代になると、調合された薬が寺院で加持を受けたり、あるいは医師の家においても、調合に際して陰陽道に…

平安時代になると医師ですら天皇の身体に触れられなくなる、とのことですが、平安以降ずっとそうだったのでしょうか。 / 侍医が直接天皇に触れられない場合、紐や糸などで脈診をすると聞いたことがあるのですが、本当にそれで脈が取れるのでしょうか。 / 侍医は直接触診したいという気持ちを抱いていたのでしょうか。

なぜ中国では、女医が官戸や官婢のような身分から採用されたのでしょうか。

授業でも説明しましたが、中国の後宮に出仕する宮人たちは概ね罪人で、生涯後宮に束縛されて生きることを余儀なくされていました。それゆえに、やはり宮人である女医も最下層の身分から採られていたのです。有力貴族・豪族の子女が奉仕した日本の後宮と比べ…

侍医や女医博士の身分が意外に高かったことに驚きましたが、やはり中国の制度をそのまま採用したのでしょうか。 / 女医の活躍は、律令以外の史料にもみられるのでしょうか。

女医博士は、日本で新たに置かれた官職です。記録をみると、これは女性ではなかったようですね。また、女医の活動については史料がほとんど残っておらず、明らかではありません。例えば平安時代の后妃たちの出産では、女房が奉仕しており女医の姿はみえませ…

穢れ観との関係で、医師が卑賤な仕事と思われたことはなかったのでしょうか。

律令に関して、医師から医博士にかけて記述順が官位相当の順番に沿っていませんが、何か理由があるのですか。

恐らく、博士(教授)と学生をペアで書くためでしょう。陰陽寮でも、陰陽師のあとに、陰陽博士・陰陽生、暦博士・暦生、天文博士・天文生、漏刻博士・漏刻生、の順になっています。

日本は主に中国から医療の知識を得ていたようですが、他の地域からは得ていなかったのですか。

『医心方』をみますと、『百済新集方』『新羅法師方』の書名がみえます。前者は肺病系のものと腫れもの系のもの、後者は仏呪房術に腹部のしこりに関する記述となっています。これらがどう将来されたのかは分かりませんが、中国の医書に引用されていたという…