2017-07-10から1日間の記事一覧

物語り性こそが歴史学の本質ならば、事実を知ることは不可能なのでしょうか。歴史学は事実を知ることが基本、と考えるのは間違っているのですか。

復習してほしいのですが、物語りとは、イコール・フィクションではありません。上にも述べましたが、例えば新聞記事も主観的な物語りであって、言葉が介在する限り、あらゆる「事実」と呼ばれるものもすべて物語り性を持つのです。それゆえに、それらが事実…

両論併記の問題性については分かりましたが、それをジャーナリズムに求めるのはどうなのでしょうか。白黒はっきりしていないないようだからといって、報道を自粛してしまうのは、かえって中立性を損なう可能性もあります。

両論併記について、はっきりしないものは報道するな、とは一言もいっていません。検証せよ、といっているのです。近年の日本のジャーナリズムの大きな問題は、情報のソースからその正確さ、内容の事実性などを検証する努力を、どんどん怠りつつある点です。…

ポストモダン的傾向と、保苅が目指した方向とは同じものだったのでしょうか。

保苅は、ポストモダンの先へ行こうとしたわけです。ポストモダンの潮流は、近代学問の問題性をあぶり出したけれども、結局は学問同士、また学問と社会との間に分断と軋轢を生み出してしまった。それを新しい形で結び直すにはどうするか。自分を科学的、公明…

歴史学の課題として、ものごとはなるべく客観的にみなければならないということは必要と思いますが、先生の思う一番の方法とは何でしょうか。

もちろんそのとおりですね。自分の政治性、恣意性を厳しくみつめ、相対化し、可能な限り客観性を目指すことは必要です。しかし、それにはやはり限界がある。大切なことは、そうした思考過程を科学の名で隠蔽せず、しっかりと公開することです。手練手管を明…

「素朴実在論」とは何でしょうか。

目の前にあるモノをそのまま存在するとする考え方のことです。素朴実証主義も似たようなもので、史料を通じて過去の事実が明らかになると考える立場のことです。

「アプリオリ」とはどのようなことですか。

即自的、あるいは超越論的などと訳します。つまり、議論するべくもない、当たり前のものとして決まっている意味、ということです。

私は、レポートに「私は〜だと思う・考える」と必ず入れて書いているのですが、自分で考えて述べた意見は、すでに多くの歴史学者が考え出している場合が多いです。私もこれまで読んできたものが先入観となっているため、「私は……」と述べても、結果的には自分の本当の意見が出せなくなっています。

自分という存在にコピーがないように、自分のものの見方、考え方も、他の誰かとまったく一緒ということはありえません。これから研究を真摯に続けてゆくなかで、きっと、あなたにしか分からないもの、気づかないものが発見できるはずです。それこそが、歴史…

北條先生は、レポートに「私」「思う」などと書いても、それを原因に評価を下げるということはありませんか?

一切ありません。これまで一度も、そんなことで評価を落としたことはありません。

「私」「思う」「考える」という言葉を避け、主観性を隠蔽しているということは、実際は主観性が入っていることを黙認していることになるのではないかでしょうか。

そういうことになりますね。典型的なのが教科書です。そこに書かれている内容は、誰かの学説に過ぎない、さらには仮説に過ぎないものなのに、あたかも変更のされようがない厳然とした事実のように断定されている。ナショナル・ヒストリーを提供する教科書に…

理想的年代記は、やがてAIによって可能になるかもしれませんが、それが歴史といえるのかどうか分からなくなりました。

そのとおりですね。ダントーがいいたかったことも、まさにそこにあるはずです。つまり、あらゆることを起きた直後に記録する「理想的年代記」は、たとえそれが可能になったとしても、単なる記録であって「歴史叙述」にはならない。歴史叙述の本質は、後世の…

歴史学以外の学問は、歴史学よりも科学認識論的な基礎付けがあったといえるのだろうか。

歴史学はその歴史が古い分だけ、例えばヨーロッパの学問のなかでも、アジアの学問のなかでも、存在することが自明とされてきました。国家にとって必要な知を供与するものであり、その社会的地位も高かったわけです。近代学問化においても、そのあり方は基本…

コルバンが、「真っ白な心で受け容れる」などといっているのは無理なことだと思うのですが、どうしてこのようにいう人、考える人がいるのでしょうか。また、「エピステモロジカル」な視点はどうすれば身に付くのですか。

社会史の泰斗であるコルバンが上のように発言したことは、たぶん多くの人々にとって衝撃であったと思います。ブロックやフェーヴルが生きていたら、彼を叱りつけたことでしょう。しかし経験主義が極致に達すると、ある種の達観として、そのような認識枠組み…

実証主義の認識論が経験主義であることについて、客観性を求める実証主義がなぜ経験主義なのか、よく分かりませんでした。

確かに、そこには重大な自己矛盾があります。実証主義は、例えば史料批判における真偽判断を、歴史学者の「経験」に委ねます。その背景には、歴史学者の知と方法が、充分に訓練され信頼のおけるものだという自負が含まれており、実際その場合も多いのですが…

アーヴィングは、ホロコースト否定論を喧伝すること自体に価値を見出していた、と聞きました。では、彼はこれを喧伝することで、社会に何を伝えたかったのですか?

ホロコースト否定論者は、概ねナチスに対する賛同者か、ユダヤ人差別主義者です。すなわち彼らの目的は、ナチスの正当性を訴えること、ユダヤ人を批判し冒瀆することです。彼らは議論を通じて、自らの政治思想が世界に広まることを目的としているのです。