憲法十七条の「憲法」とは、どのような意味でしょうか。

憲法十七条については授業では詳しく触れませんでしたが、隋の成立に伴う国際的緊張のなかにあった推古朝の朝廷において、中央集権化へ踏み切ろうとする蘇我馬子の改革のなかで、それに近いものは実際に作られた可能性があります。内容は儒教や仏教の道徳をもとに、氏族制を離れ王権・国家に奉仕すべき「官僚」が遵守すべきことがらを定めたものです。王よりも氏上に奉仕し、王権全体より氏族の利益を尊重していたであろう人びとの意識を変えてゆく、ひとつのスローガンであったと考えられます。有名な『論語』『礼記』からの引用、「和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗とせよ」は、それだけ豪族どうしの対立が激しかった現実を反映しているのでしょう。事実、推古の前の崇峻大王は、馬子によって暗殺されているわけですから。崇峻の死は、それによって朝廷に大きな混乱が生じた痕跡がなく、恐らくは群臣合意の事件であったと推測されます。しかしそれがヤマト王権の危機であった、いわば「蘇我氏の起こした〈乙巳の変〉」で、それをもって推古朝の改革が始動したことは疑いありません。憲法十七条は、そうした背景の対立関係を収束し、新たな国家体制へ向けて群臣の意識を統一する役割も担っていたのでしょう。