『日本書紀』は中国の史書を模倣したとのお話がありましたが、ではなぜ中国史書とは異なる編年体を採用したのでしょうか?
ひとつには、編年体を採用することで革命のない倭=日本国の一貫性、いわゆる万世一系のありようを示そうとしたためでしょう。紀伝・列伝を叙述しうるほどの文字資料が存在しなかった可能性も考えられます。そしてもうひとつには、実は日本の文化が極めて強く影響を受けた中国の六朝文化においては、編年体の史書が非常に多く作成されているのです。残念ながらそのほとんどは散佚してしまっていますが、例えば、東晋・袁宏『後漢紀』から干宝『晋紀』、訒粲『晋紀』、孫盛『晋陽秋』、習鑿歯『漢晋春秋』、劉宋・檀道鸞『続晋陽秋』、梁・裴子野『宋略』、蕭方等『三十国春秋』、北魏・崔鴻『十六国春秋』など枚挙に遑がありません。実は、『日本書紀』が天地開闢という世界の始まりから筆を起こすのも、魏・荀悦『漢紀』、西晋・皇甫謐『帝王世紀』など、やはり「帝紀」といわれる六朝史書の影響なのです。