足利尊氏らが自らを関羽に準えたとのこと、なぜ尉遅恭や岳飛ではなく、関羽なのでしょう。尊氏の立場からすると、漢王朝への忠臣である関羽より、尉遅恭などのほうが適切ではないかと思ってしまいます。

ぼくの講義ではないので正確なところは分かりませんが(笑)、やはり知名度と信仰の程度の問題がひとつ。関羽が同時代にそれなりに著名な武将であったことは間違いありませんが、魏晋南北朝の時代を通じては、それほど屹立した信仰は成り立っていなかったと考えられます。しかし唐代には武廟六十四将のうちに選ばれ、北宋を通じ説三分などの講談で肉付けがなされ、元代では『全相三国志平話』のような、絵入りの書物にまとめられてゆく。これと併行して諸宗教でも神格化が進み、仏教では唐代から門神・伽藍神のような守護神として、儒教道教でも元〜明代から、五文昌などとして崇拝されるようになってゆきます。忠義を象徴する存在として王朝にも政治的価値があり、北宋段階から王号が追諡され、冊封されてゆきます。足利尊氏が自らに準えるということは、自分で自分を鼓舞するとともに、社会的・政治的に自らを意味づけ、強化してゆく意図があったと考えられます。それならば一般への知名度が重要であったはずで、関羽以外の選択肢は、それほど多くなかったのではないでしょうか。また、尊氏は後醍醐を裏切った自らを正当化するうえで、実態に近い唐の尉遅恭を用いるより、忠義に篤い関羽を用いたほうが、「(北朝南朝の区別なく)天朝に奉仕し守護する存在としての武家の棟梁」を演出できたのではないでしょうか。