平和教育とは何なのだろう。日本は悪の国で永遠に謝罪して、日本人に生まれたことを罪に感じながら生きていくことが、「平和教育」なのだろうか。

そういう平和教育は、これまで日本のどこでも実施されてはいないでしょう。平和教育とは、それぞれの国々が世界のなかで自国の歴史をしっかりと正視し、共通の理解を目指す努力を放棄せず、手を結び合う可能性を模索し続けることだと思います。よって、対話を放棄すべきだなどと喧伝する国は、平和国家とはいえないでしょうし、また、世界から尊敬も得られないだろうと思います。日本が戦前・戦中にしたことは、史実に基づいて理解をしたうえで、実はその帝国主義植民地主義の恩恵に浴して生きてきた(高度経済成長は、戦前・戦中の歴史と断絶していません)戦後世代の我々にも、まったく無関係なことではない。しかし同時に、国家が国民を誘導し、ある意味では洗脳して遂行した戦争に対し、すべてを我々自身の罪だと「背負って」しまうのも間違いです。国家が国家として行った犯罪は、後継国家がその責任をしっかりと取るべきであり、国民はそれを分有しつつも、同時に追及する権利があるのです。例えば、藤原彰氏の研究では太平洋戦争において戦死した日本軍兵士の半数以上が、実は「華々しい」戦闘死ではなく、病死、あるいは戦地栄養失調症=餓死であったことが明らかにされています(全戦没者約212万1000名のうち、病死者・餓死者は6割を超える約127万6240名)。これは、当時の軍部の兵站を無視した無謀な作戦によって引き起こされたのであり、国家が国民を無駄死にさせていったにほかなりません。よって我々は悪=日本を背負ってしまうのではなく、むしろ帝国日本の惨禍に遭った他国の人々と協働しながら、そうした国家のありようを検証し、告発してゆくべきなのです(命令を遵守して戦死した軍兵だけを祀る靖国神社など、そうした国家の、世界と自国国民に対する責任を糊塗するだけのものに過ぎません)。