邪馬台国の位置について、さまざまな地図をもとに『魏志倭人伝』の記述を検証する作業が行われていますが、当時の人々の地理的感覚は正確ではなかったのでしょうか?

いわゆる『魏志倭人伝』の記述は、他に比較すべき同時代史料のない孤立したものです。それゆえに、一層厳密な史料批判が必要なわけですが、これまでは逆に、孤立しているがゆえにその記述に縛られてしまう、ということが多くありました。『倭人伝』の記述を活かすために、大和説/北九州説の〈現実〉をどうそれに合わせるか、合わせるためにはどのような読み方が必要かが議論されてきたのです。しかしそもそも、邪馬台国へ趣いた使者の認識がどの程度正確であったのか、またそれは正確に記録されたのか、その記録は正確な状態で『魏書』に援用されたのかなど、さまざまに批判すべき箇所は存在するわけです。授業で紹介した南梁の『職貢図』のように、これまで積み重なった倭に対する知識があっても、同時代に充分な通交がないだけで、その表現は不正確なものになってしまう。曖昧な想定を幾つも積み重ねて『倭人伝』の記事を正確なものと考えるより、とりあえずは「不正確さが残るもの」に留めておき、考古資料との関係性において評価してゆくのが、穏当な学問的態度であると思われます。