稲作について、直播き→田植え、湿田→乾田といった変化は、いつ何が原因で起きたのでしょうか?

近年の菊地有希子氏による栽培実験データでは、直播きよりも移植栽培のほうが、移植密度が高いほど収穫量が多くなるとの結果を示しています。これを念頭に置いて、関東近辺の弥生集落の食生活における米食の割合を考えてみると、弥生中期後葉の埼玉県熊谷市北島遺跡(水田面積から推定できる米の総生産量を4000~4800kg、一時期に住んだ集落人口を75人と推定)では26~31%程度、弥生中期後葉の千葉県市原市菊間手永遺跡(総生産量19800~21300kg、一時期の集落人口は300~420人前後)でもやはり26~31%程度だが、 弥生後期の静岡県登呂遺跡(総生産量9537~11174kg、一時期の集落人口60人)では76~89%と向上している。この変化は、中期から後期にかけての時期に、移植栽培など農業技術の発展があった可能性を示唆する、とみなされています。知識や技術は半島からもたらされたものでしょうが、それが列島内で次第に実現されていったのは、外来の情報を列島の生態系で試行し、適合させていった結果でしょう。稲作の経験の蓄積と環境の問題、そして増加してきた人口を支えるためのさらなる収穫増加へのベクトルが、次第に稲作の形式を変化させていったものと考えられます。