弥生時代に農耕が進んでゆくうえで、必ずしもすべての土地が農耕に向いていたわけではないと思う。そうしたところには、共同体は形成されなかったのか?

重要な質問です。まず、原始的な農耕の痕跡が認められるものの、基本的には狩猟採集社会であった縄文の集落は、水辺と山麓・森林地域を往来しやすいような台地・丘陵上に営まれるのが一般的でした。また縄文の人びとは、獲物を追って、比較的高地の山々にも分け入っていたことが確認されています。縄文時代には、地域の環境条件に適応した、多様な共同体が広汎に存在していたと考えられます。それは弥生時代も同様で、灌漑稲作農耕が始まると低地にも集落が作られるようになりますが、とくに縄文的な社会が長く息づいていた東日本には、稲作に依存しない共同体も存在したと考えられます。山の生業や海の生業に基づくものは代表的で、それらは(ひとつの共同体が一貫して存在したかどうかは別として)近世・近代に至るまで継続し、特徴的な民俗を形成していました。弥生時代にはほかに、瀬戸内周辺を中心に高地性集落が存在しましたが、これは「倭国大乱」を前提とする城塞的な施設だったのではないかと考えられています。また、弥生時代には標高30メートルほどの丘陵地に青銅器の埋納が行われ、臨時の祭場となったことが確認できますが、次第にそれ以上の山地は「禁足」化し、縄文時代のように自由な活動の場所ではなくなっていったようです。平地以外の共同体も多様に存在したはずですが、それらも稲作を中心とする平地社会の影響を受け、変質を余儀なくされていったことは確かでしょう。