2018-05-21から1日間の記事一覧
どちらが古いかを確認することは難しいのですが、例えばわれわれの知る日本の神話は『古事記』『日本書紀』『風土記』といった、国家が編纂した史書・地誌の形態で残っています。これは、ヤマト王権→律令国家が、自分たちの建国の正史として作り上げたもので…
考古学的な発見などによって、ヤマト王権の伸張情況、王系の形成過程などがみえてきています。古墳時代のところでお話しします。
そうですね。しかし、実際にヤマト王権が成立したのは、全国的な戦乱の結果ではなく、利害調整を行う王権が必要とされたためと考えられています。武力でねじ伏せ、従属させるような統一がなされなかったからこそ、当初のヤマト王権は畿内豪族を中心に各地の…
授業で説明しましたが、大月氏を重視したのと同じく、中国王朝が伝統的に用いる政策・戦略のひとつ、遠交近攻策であったと思われます。魏が注視していたのは、長く燕の従属下にあった朝鮮半島でしょう。海路を通じて呉と結びつけば、厄介なことになります。…
祖先もしくは祖霊を崇拝する信仰形態は、もともと、人類にとってはそれなりに普遍性があったと思われます。アフリカや南米、北方などの民族社会においては、例えば歴史叙述も父祖の物語として、70代遡るような口頭伝承が存在します。東アジアにおいては、原…
実体は分かりません。北九州の国々なのか、あるいは北九州・中国・近畿・東海のようなまとまりとすべきなのか。纒向遺跡の発掘担当者などは、帥升の段階からヤマト王権の王と位置づけているので、「政治グループ」は全国的な規模を想定することになります。
中国王朝に倭に対する情報がどれだけ集積されていたのかは分かりません。やはり海外の国ですので、それほど重視はしていなかったでしょうし、積極的に情報を収集することもなかったでしょう。「人」から「国」への変化は、例えば複数の政治的まとまりが半島…
国家の形成は、突出した首長によって統括される社会を前提に誕生します。つまり、共同体が否定されて特定の人物、あるいは親族へ権力が集中していった結果なのです。共同体の信仰形態は多くアニミズムであり、自然環境そのものを(縄文が死と再生の循環を信…
10年程度前までは、例えば神庭荒神谷など、出雲における平型銅剣・銅鐸の大量埋納は、どれだけ質の高い青銅器をどれだけ大量に埋納できるかという、首長の権威を示すための蕩尽・競争儀礼だったのではないかと説明していました。しかし近年では、授業で扱っ…
渦巻き文ですね。世界的に共通する文様で、一般的に生命のエネルギーを象徴するものといわれています。
授業でもお話ししたと思いますが、祭具の特徴が変わってゆくことと、祭祀の形式が変わってゆくことを、同時にみてゆく必要があります。楽器としての機能が主要であった頃の銅鐸には、文様があまり存在しません。逆に楽器としての機能を喪失した銅鐸には、種…
はい、もちろんそのとおりですね。その点、確かに検証が必要です。しかし、輝くものが重視されたかどうかを、検証するのは難しい。古代においては、輝くもの自体が少ないからです。しかし、太陽が信仰されたのは、世界的にかなり普遍性のある事実でしょう。…
銅と錫の原料自体は、半島からの輸入に頼っていたと考えられますが、混合の比率は微妙に異なり、列島では銅の分量がやや多かったようです(錫が多いと、錆びたときに黒っぽくなります)。出土している鋳型などによれば、砂岩などの軟らかい石材を用いて鋳型…
鳥装の人物を女性シャーマンとみるにしても、それが女性信仰と一体であるとは必ずしもいえません。そもそも、女性を信仰していた様子が、弥生時代の社会・文化からは、痕跡としてあまり出てこない。縄文時代に比べ、土偶(大地母神?)に類する形での女性性…
授業でもお話ししましたが、例えば良好な環境下で稲作の収穫量が伸び、集落の人口も増大したとします。しかし、寒冷化によって稲の収量が落ち込み、増加した人口を維持できなくなってしまった。そうしたときに集落が解体しより小規模なものに分離したり、あ…
徐福という人物が東海に船出したのは事実かも知れませんが、彼が日本へ到着したという記述は『史記』にはなく、10世紀に至ってようやく現れるもので、列島各地の伝説もそれ以降に生じたものと考えられます。そもそも、徐福が日本列島を目指した、日本に到着…
いえ、どちらが良い/悪いということではなく、同じことです。ある問題について仮説を立てるとき、無から仮説を立てることは学問においてはありえず、何らかのデータが参照されます。文献史学の場合は主に史料、考古学の場合は出土資料(遺跡・遺物など)に…