燕の二枚舌外交の詳細について教えて下さい。
燕国における公孫淵の政権は、太和2年(228)、叔父の恭の地位を簒奪することによって始まっています。父親の康の代には、朝鮮半島の楽浪郡の南に帯方郡を設置し、西は烏恒、東は高句麗・扶余、南は遼東、山東に及ぶまでの一大勢力圏を築き上げていました。燕は魏と故郷を接していましたが、明帝と司馬懿は蜀の北伐と大月氏への対応に追われており、圧力をかけつつもその行動を放置せざるをえない状態にありました。そこに注目した呉の孫権は、公孫淵を燕王に冊封する使者を派遣、その勢力を取り込もうとします。公孫淵は呉に呼応したものの最後に裏切り、呉の使者を斬って首級を魏へ届け、魏との本格的な対立を回避しようとしました。しかし、魏は次第に燕周辺の諸民族を公孫淵から寝返らせ、景初元年(237)、自立して燕王となった淵を直接攻撃し始めます。淵は孫権に協力を求めるものの拒否され、翌年、4万の兵を率いた司馬懿の攻撃によって滅ぼされてしまうのです。