飛鳥時代は、大化改新から律令制まで、さまざまな改革がなされたと思いますが、それは庶民たちにも知られていたのでしょうか。テレビや新聞がないなか、どのように情報は伝えられていたのでしょうか。

授業でもお話ししましたが、政治が次第に庶民に対し、直接的影響を及ぼし始めたのが飛鳥時代に当たる時期です。いわゆる公地公民が、孝徳朝の時点でどの程度実施されたのかは疑問がありますが、例えば孝徳立評に関連する部分で、8世紀初めの『常陸国風土記』行方郡条に、興味深い伝承が載っています。行方郡では、継体天皇の頃、箭括麻多智という人物が低湿地帯の象徴ともいうべき蛇神=夜刀神を駆逐し、水田開発を実現しました。このとき麻多智は、甲冑と武器をもって夜刀神を山へ追いやりましたが、平地との境界部分でこれを祭祀せざるをえませんでした。恐らくこれは、地域共同体が強く抱いていた山林への畏敬の念が、知識や技術の革新によって払拭されてゆく過程を反映しているのでしょうが、しかし共同体規制としての神祇の影響力も、やはりまだまだ大きかったことを意味しています。しかし同条には、孝徳天皇の頃、同じ場所で壬生連麻呂という人物が治水工事を行い、妨害に現れた夜刀神に対し、「天皇が民を活かすために行う治水工事を、どんな神が邪魔するのか」と一喝、これを退去させたという記事が続いて載っています。麻多智のときには武力をもってしか排除できず、最終的に祭祀の対象ともなっていた夜刀神が、麻呂の段階では、「天皇」の名前が持ち出されるだけで逃げ去ってゆく。実は麻呂は、孝徳天皇に対し自らの領地を「行方郡」として奉献した、かつての茨城国造だったのです。彼が行った治水も、役民を動員しての国家事業でであり、王権が保持していた知識・技術が導入されたものと想定できます。工事に動員された人々にとっては、直接奉仕している人間は変わらないとはいえ、神々に対する意識の相対化も含めて、実感できる変化があったものでしょう。行政区画の変更によって居住地を移動させられたり、戸籍の作成によって実態とは異なる「戸」に編成されたり、調という新たな中央税を課され大和へ直接運搬させられたり、兵役を課されみたこともない西国へ連れてゆかれたり、それは次第にエスカレートしてゆきます。これは象徴的な事例に過ぎませんが、大化改新以降の中央の改革は、次第に一般の人々の生活へ直接関係し、意識されるようになっていったと考えられます。ちなみに、国家的な命令は、地方行政の長を通じて下へ、下へ、と口頭で命令されてゆき、都や国府などの都市では告知札も用いられていました。律令国家は文書行政が基本ですが、いまだ文字伝達が一般的ではなかった地方社会にあっては、口頭伝達が大きな意味を持っていました。貴人の尊称を「命」=ミコトというのは、その人物の言葉を神聖化したもので、天皇詔勅をミコトノリ、すなちわミコト=御言+ノル=宣ると表現するのも同じことです。首長による命令の伝達は、かつては大きな支配力を持っていたものでしょう。なお、中央の政治のありようは、最古のメディアとも呼ばれる「うわさ」によっても、地方へ伝わっていたものと想像されます。