『書紀』における乙巳の変の記述は、細かく、また物語り的で、どの程度潤色されているのか疑わしく思いました。天皇の発言など、記述者の想像ではないかと思えてしまいます。

後ほど、トピックとして「聖徳太子」を取り上げ、そこで詳しく説明したいと思っているのですが、『日本書紀』の研究は、近年大きく進んでいます。例えば、現在の水準の基盤になっている森博達氏の研究によると、同書全30巻は、中国人が執筆したと考えられる正格漢文をなしているか、あるいは倭の人間が記述したと考えられる和化漢文をなしているか、あるいは歌謡や訓注に用いられた漢字の音が中国原音か和音かなどによって、α群(巻14〜21・24〜27)、β群(巻1〜13・22〜23・28〜29)、巻30の3つにグルーピングでき、それぞれ7世紀末から8世紀初にかけて、順次編纂されていったと考えられています。乙巳の変の記載がある巻24はα群に入り、『書紀』のなかでは比較的早期に成立したことが分かっていますが、漢籍の文章を援用して書かれている箇所も多く、それだけ8世紀律令国家の政治的意図を反映している。例えば、『後漢書』などからの引用は、蘇我氏の専横を演出する怪異記事に用いられていますが(中国の災異思想、すなわち地上の統治が乱れているとき、天はそれを譴責するため、さまざなま災禍や怪異をもたらすとすることに基づく)、それは逆に、中大兄らによるクーデターを正当化する意味があったわけです。実際のクーデターを記述した問題の条文も、詳細である分、その背景にある政治性を想定して読解しなければいけません。
ただし、中国王朝に発する東アジア的な歴史記述の場合、殷代の昔から、王の一挙手一投足を記録するのが、史官の職務として定められてはいました。『礼記』玉藻篇には、「動は則ち左史之を書し、言は則ち右史之を書す」とあり、王には常に左史・右史が付き従い、その言行を記録していたというのです。実際の皇極大王の頃、古代日本の歴史叙述の世界は、必ずしも文字の世界に特化してはおらず、語部などによる記憶・口頭伝承に依存している部分が大きかったと思われます。彼らの表現は恐らく芸能と未分化で、多分に演劇的な要素を持っていたはずであり、乙巳の変のこの記載も(俳優などが登場することも含め)、そうした口承・芸能の影響によるものかも分かりません。事実、中国の古い歴史書である『春秋左氏伝』『国語』などに載るエピソードは、王と臣下との対話によって進められることが多いのですが、二人で行う対偶劇という宮廷芸能に由来するのではないか、という研究もあります。8世紀の宮廷においては、律令国家の濫觴ともいうべき乙巳の変の〈神話的光景〉が、俳優たちによって上演されていたのかもしれません。