江戸時代や明治時代にあった「日本らしさ」への回帰が求めたものは、「日本らしさ」ではないのだろうか。それらが作られたものならば、何が「日本らしさ」といえるのだろうか。

大変によい質問です。「日本らしさ」という概念が成立するためには、周囲と「日本」とを政治的・社会的・文化的に区別する境界線が必要です。そしてその境界線は、時代によっても、地域によっても、場合によってはそれを引く主体ごとに、大きく変動するものです。そもそも、「日本らしさ」の「日本」とは何でしょうか。日本列島のことでしょうか、それとも国民国家日本のことでしょうか。日本列島のこととして、それはどこからどこまででしょう。アイヌは入りますか、琉球は入りますか。東北地方の民俗と、九州の民俗とは、「日本らしさ」で一括りにできるほど共通性、均一性があるでしょうか? そう考えてゆくと、「日本らしさ」を問うこと自体が、実は極めて政治的な行為なのだと気づくはずです。東西南北のさまざまな文化圏、流通圏と接続した極めて多様な列島文化、常に変動し続けるそのありようを、「日本らしさ」のフィルター、あるいはフレームに収めようとするのは、その豊かさを削り取り、歪めてしまうことと無関係ではありえません。いま、文学部の横断型プログラムで「ジャパノロジー概論」という講義を担当しているのですが、毎年最初の授業で学生にアンケートを取り、「日本らしい」と思うものを答えてもらっています。今年の回答は以下のとおりです。いわゆるステレオタイプも多いかと思いますが、それぞれの回答を生んだまなざしが何に基づいているのかが重要ですね。

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2019年度「ジャパノロジー概論」での「日本のイメージ」